代表理事の朝の歌

「本日の朝から、代表理事の〔朝の歌〕」と題して、少なくとも一週間に一回、多ければ毎日、
私から小鳥のさえずりならぬ朝のさえずりをお届けします。おもに、「心のアーカイブ」に収録された
作品のご紹介ですが、脱線することもままあるかと思います。そのときはぜひさえずり返してください。
この2年間、私は朝6時には起きて近くの公園を散歩をしています。朝の散歩でもっともいい
ことは、 さまざまな小鳥の声が聞こえることです。それは季節によって少しずつ変わりますが、
驚くことに、 毎年、同じ小鳥が同じ季節にさえずることもあります。そんな時、「おまえもまだ
生きていたのか」、 とさえずりたくなります。彼らは、私たち人間がいかに自然の時間から離れ、
「時は金なり」の時間に 生きてきてしまったかを教えてくれます。私は小鳥たちのその声を翻訳
して、みなさんにこれからお届けしたいと思います。これからもどうぞよろしく。



クレイジイジの与太話(1) 「孫と認知症の友」(2019/09/02)

 昔、私が勤めていた職場には、退職校長先生たちによる「教育顧問会」なるものがあった。その先生たちの世間話となると、必ず孫の話で盛り上がる。当時は、またその話かよ、と脇であきれながら聞いていた。しかし、いざ自分にも孫ができると、その気持ちがよくわかる。
 初孫のせいちゃんは元気な女の子で、もうすぐ2歳である。会うたびにどんどん成長するので、それが楽しみだ。特に言葉の日々の発達はエキサイティングでもある。彼女は家族や保育園などの人間関係のなかで、言葉を獲得していくのだろう。赤ちゃんことばのなかに意味のある単語を突然しゃべり出す。そのうちまとまったお話をしてくれることだろう。
 こうした子どもの言葉の発達については、心理学の教科書などによく書かれている。簡単にいえば、人間はそのようにプログラムされているのだ。しかし、孫のことになると、単なる心理学の話でなくなる。おそらく、自分自身もこうして言葉を獲得してきたのだろうと、幼い頃のことを思い出したりする。
 もう一つの言葉に関するエピソードは、私の親しい友人Mが、2年前に若年性アルツハイマーを発症したことだ。発症の数年前から、数時間前の約束事を忘れたりした。精密検査の結果、病名が明らかになり、現在は認知症専門病院にいる。  Mは某大学の現役の教授でもあるので、まさかと皆が思った。もともと人一倍負けん気が強く,気位も高い男である。おそらく突然襲った病気のことが腹立たしいのだろう。アルツハイマーの周辺症状、すなわち、乱暴な言葉や振舞いがひどくなり、家族では支えきれず入院することになった。
 アルツハイマーは、現在の医療では治療法が確立していない。病院では、様々なクスリを投与し、患者を管理しようとする。明らかな副作用が現れ、それを押さえるクスリがまた与えられる。それらが悪循環となって体力も言語能力も急速に衰えていく。唯一の治療法は、家族や周囲がコミュニケーションをたえず取り、支え続けることだが、それにも限界がある。結果として病院に多くを委ねることになる。
 Mは、大学は休職中である。いちど大学の許可を得て、彼の研究室を訪ねてみた。学術書や資料、本人の論文などが部屋に雑然と山のようにあふれ、窓際のデスクまで歩くことさえ困難だった。Mがこれまで研究し、紡できた言葉の深い海の底にいるようにも思えた。Mはこれらの存在も今は忘れている。
 広義の認知症でいえば、我が国では90歳までに、その6割が発症すると言われている。要するに我々が認知症になるかどうかは、早いか遅いかの差であって、長寿社会では避けられない、老化現象ということであろう。たしかに、私自身も、年々物覚えが悪くなっている気がする。
 せいちゃんは、日ごと急速に言葉を獲得していく。一方Mは、日ごとに言葉が剥落していく。全く別のことのようだがそれらは繋がっている。
 言語のコミュニケーションというと、普通、「蜘蛛の巣(web)」のような空間的なイメージを思い浮かべるのではないだろうか。友人同士、家庭、職場等々。インターネットなどはまさにそうした世界である。しかし、個人の言葉の世界にはそうした空間的な繋がりだけでなく、誕生から死までの時間軸的な繋がりもある。イメージ的には「紡錘形」を横にしたようなイメージである。Mの研究室の中は、その最も膨らんだところを表しているのだろう。人それぞれが、そうした「紡錘形」の言葉の世界を形作りながら生きているのではないか。その中で、私は孫と話し、認知症の友人とも話す。そこには私自身の「紡錘形」の言葉の世界があるように思える。
 私にとって、せいちゃんとも、Mとも、それぞれと会話している時間は、幸せな時である。

クレイジイジの「長生きリスク」(その3)塩飽諸島の漁師の話(2019/7/27)

 もう10年以上の前の話になるが、当時私が勤務していた某財団の地域振興の仕事で、瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島を回っていた時期があった。塩飽諸島とは瀬戸内海の岡山県と香川県の間に位置する島々で、いわゆる備讃瀬戸に属する。島の人々はその昔、塩飽水軍としておおいに活躍していた。平時の生業としては瀬戸内の海運業であるが、戦国時代などでは水軍として荒っぽいこともやっていたようだ。瀬戸内海の西側の芸予諸島には村上水軍が同様に活躍していた。 塩飽諸島には高見島という人口60人にも満たない小さな島があり、当時そこで吉田さんという漁師が民宿も営んでおられ、時々利用させてもらった。
 その民宿の名物料理が「タコの踊り食い」である。どういうものかというと、吉田さんが早朝、素潜りで獲ってきた1キロほどある大きな真ダコを、熱した鉄板の上に生きたまま丸ごと載せ、半ボール状のステンレス製の蓋をかぶせて蒸し焼きにする。蓋の中でタコがバタバタもがき暴れるので、その間は何とも言えない時間帯だ。吉田さんの顔がなんだか海賊に見えてくる。 そのうち静かになり、おもむろに蓋を開けると湯気とともに真っ赤に丸まったタコが現れる。それを調理ばさみでぶつ切りにしてワサビ醤油などで豪快に食べる。ビールが旨い。料理の経過は別として至福のときである。 さて、ここで話したかったのはタコの話ではない。このときの吉田さんの話がいまでも「タコの踊り食い」とともに印象に残っているのである。
 瀬戸内海の島々は、一昔前、すなわち戦後間もなくのころまでは、今より島の人口は多く、子どもたちも大勢いた。明治政府は国家の近代化のため、全国津々浦々に小学校を建てた。たいていの瀬戸内海の島々には小学校があった。小説「二十四の瞳」の小豆島がいい例だ。 このちいさな高見島にも戦前から小学校が建てられた。小学校がこの島にどのような変化をもたらしたかというと、さらに中学校などの上級学校に行きたい子どもは島を出ざるを得なかった。つまり、学校教育は島からの人口流出にもつながっていったのである。吉田さんの小学校の同級生の多くは島を離れ、本土、すなわち岡山や四国にわたり多くはサラリーマンとなった。
 それから約40年あまりが過ぎ、小学校の同窓会を開くことになる。サラリーマンになった友人たちも定年退職を迎える時期になるのだが、吉田さんからすれば彼らの話しは「ちいっとも面白くねーが」という。そのわけを聴くとサラリーマン連中は、年金と病気の話しかしないというのである。
 当時まだ50代であった私は、あまり実感なく聴いていたが、確かに吉田さんは自身の漁師の腕と、船と、この民宿で生業とし、家族を支え、どこに属するものでもなく、生計を立てている。それに比べれば、組織にへばりついて将来は退職金と年金をあてにしている自分との落差を感じ、急に吉田さんを尊敬する気持ちが沸いたものである。 漁師には年齢と体力に応じた仕事と働き場所がある。歳をとり、漁に出ることがかなわなくなれば、漁港で網の修理をするなど居場所がある。確かに年金と病院にしか話題がない本土の定年を迎えたサラリーマンの連中は、吉田さんからみれば夢も希望も感じられないだろう。 その後、私も企業を退職し、さりとて退職金と年金だけで生活しているわけでもないが、今回の厚生労働省の報告書に端を発した「老後2,000万円の貯え」問題は、当時の吉田さんの話が思い起されるのである。
 今回の7月21日の参議院選挙では、「年金問題」はあまり選挙の大きな争点にはならなかったようだ。おそらくこの問題は、どこが政権を取ろうとも、大きな改革はできないし、いまさら改革を望まない人も多いからであろう。 選挙後、ある民放のテレビ番組で、何人かの若者が「あまり年金には期待しない。自分で自分を守っていくしかない」というような意見を述べていたが、何処か吉田さんの話とも通じるところがあり、まっとうな意見だと思った。 年金制度は19世紀末にドイツに始まった、近代の福祉国家の思想と制度である。これによって多くの人々が飢えと貧困から救われたが、しょせん人間が作った制度である。あたかも空気のようにあって当然と思うのは錯覚である。まずは自分でどうやって自立して生きていくかが前提であろう。

クレイジイジの「長生きリスク」(その2)麻生発言問題!(2019/06/21)

 ちょうど「長生きリスク」(その2)を書こうとしている時に、麻生太郎財務大臣の年金に関する発言が大きな問題となった。その発端となった金融庁のワーキンググループが6月3日付けでまとめた「高齢化社会における資産形成・管理」の答申報告後、記者団に取り囲まれた麻生発言はこうであった。「俺が生まれたときの平均寿命は知ってるか? 47歳だ。ここにいる(記者)連中は俺も含めてみんな終わっているわけだ。それが戦後53歳になった。今は81歳だ。これからは100歳という話ではないか。普通の人は考えたこともねえだろう(中略)そしたら人生設計をよく考えろと(この報告書は)言っているわけだ」麻生大臣はその後、自分の発言が大炎上することも知らずこのときは能天気に話している。(you-tubeで見ることができる)。その後、この発言が国会で取り上げられ、衆議院選挙の争点に事欠いた野党の格好の材料となった。ことの重大さに麻生大臣および安倍政権が気づき慌てふためいたということだろう。
 そこで政府は、この答申を「受け取らない」というのだが、これもおかしな話である。専門委員会に大臣が諮問したなら、それに対する答申が不都合な報告であっても、受け取るべきであろう。受け取ってそれがこれまでの政策と異なるものであれば内容を検討し、政策に反映すればよい。それを「受け取らない」というのはおかしな話である。審議会には国民の税金も投入している。これは野党でなくとも、だれもが思うことではなかろうか。
 (ふつうは、こうした諮問に対する答申は、いわば出来レースのようなもので、官僚のシナリオに添って答申されるものである。その点も二重に奇妙な話である。) ちなみにこの報告書「高齢化社会における資産形成と管理」は金融庁のホームページでも読むことができる。学習院大学教授・神田正樹氏を座長とし、20名以上の専門家や学者が約1年間にわたり議論してまとめたものである。 ざっと読むと、これからの高齢化社会の予測がグラフなどを入れて分かりやすく書かれている。ただし、これは表題の通り、直接的に我が国の年金制度そのものについて述べたものではなく、あくまで現行の制度を前提とした老後の資産形成の未来予測であり、年金だけでは100歳時代には豊かな老後は送れないということを述べ、年金に加えて老後を見据えた資産形成の必要を報告したたものである。
 実際、団塊世代といわれるクレイジイジたちが、これを読んで、これから2,000万円の老後の貯蓄が必要といわれてもtoo late、やれるわけがない。現実には2000万円以上の資産のある金持ち爺さんもいれば、2000万円の借金で苦しむ貧乏爺さんもいる。金持ち爺さんも貧乏爺さんもその総数が多く、たいがいは元気で選挙においては等しく1票をもっているので、自民党は慌てており、野党は今回の問題を衆議院選挙の争点にしたいのは明らかだ。
 年金問題は、前回でも述べたまさに「長生きリスク」そのものである。重要な問題でありながら、みんながなるべく触れないように避けてきた問題である。正直、私自身もあまり考えたくない。どうせどこかでコロっと死ぬかもしれないという「長生きリスクに合わない期待」も心のどこかにあるからだろう。今回も、麻生財務大臣の能天気な発言から発したもので、いわば無邪気にパンドラの箱を開けて慌てたのだ(この大臣は、自分が年金をもらっているかどうかも知らなかった)。今度の衆議院選挙の争点になることは間違いない。自民党はいまその火消しに躍起になっているが、普通に考えれば、このさい、なかったことにするのではなく、まじめに政策の問題として取り上げるのが筋であろう。
 クレイジイジとしては、目に前に突き付けられた「長生きリスク」問題に目をつむるのではなく、ただ向き合うしかない。長寿社会を望みながら、同時に不安はますますつのっていく。そういう妙な時代にわれわれは生きているのである。
(つづく)

クレイジイジの長生きリスク(その1)(2019/05/31)

 最近「長生きリスク」ということをよく聞く。実に不愉快な言葉である。 はじめて耳にしたとき、長生きがリスクとはどういうことかとおもった。リスク(risk)とは、もはや日本語化して、危険、危機、損害など否定的な意味で使われる。交通事故リスク、疾病リスク、自然災害リスクなどなど。 それが「長生き」というこれまで人生のよいこと、めでたいことと思われてきたことに「リスク」とはなんということか。
 100歳の「きんさんぎんさん」がテレビに登場し、さかんにもてはやされたのは約20年前のことであった。多くの自治体でも長寿者を顕彰したが、最近はあまり注目されない。これからは「100歳人生の時代」などと言われるが、そのうち「100歳人災の時代」といわれかねない。
 もっともテレビでは、健康モノはバラエティ番組の定番である。私も玉ねぎの酢漬けが血液サラサラ効果があるなどといわれると、早速、漬物用瓶を買って来たりする。しかし、これも実は「長生きリスク」を助長しているだけなのかも知れない。
 いまや「長生きリスク」とグーグル検索するといくつも解説がでてくるので詳しくはそちらを見て頂くとして、簡単にいうと「長生きリスク」とは「長生きすることによるその個人や家族の経済的な危機(リスク)」のことである。マクロ的には我が国の社会保険のリスクということになる。
 すべての生物は、口から食べ物を取り入れ、体内に栄養を吸収し、そのカスを肛門から出す。このサイクルが止まれば死ぬ。類人猿であるゴリラやチンパンジーも、自分で木の実などを獲得できなければ死を待つしかない。彼らは食べ物を蓄えることを知らない。ましてや介護や保険制度もない。老いたチンパンジーはいても隠居した爺ちゃんチンパンジーはいないのである。
 人類もホモサピエンス誕生のころは同じような状態だったろう。しかし、文明の発達とともに食べ物を蓄えることを覚え、その蓄積で、年寄りや弱者に分け与えることが可能になった。そのため自分で食べ物を獲得できなくても、家族のなかで長生きすることができた。老いたヒトは爺ちゃん婆ちゃんと呼ばれ、何らかの居場所と役割が生まれた。爺ちゃんは生きていく知恵を子どもたちに伝え、婆ちゃんが育児や家事を手伝う。人類学の学説に「おばあちゃん仮説」という学説がある。ヒトの女性が閉経後も、子育ての手伝いなどを通して文明の進歩に役立ったというのである。この仮説も食料の保存と分かち合いがなければ成り立たないだろう。
 この貯えと分かち合いを国家レベルのシステムにしたのが社会保険制度である。最初に制度化したのは、19世紀のドイツの鉄血宰相ビスマルクといわれる。この制度はヨーロッパに瞬く間に広がり、日本でも1922年には社会保険制度(健康保険制度)が始まっている。
 社会保険制度は、産業革命とおなじく、近代社会における人類の革命的制度といっていいだろう。しかし、この制度も、国民国家の経済のパイ(GDP)が大きくなければ成り立たない。社会保険制度を最初に確立したドイツは、自国民の生存権の拡大を叫んで、領土拡張、すなわち侵略戦争を行った。この大方針は、第一次世界大戦のドイツ帝国、第二次世界大戦のナチス(国家社会主義労働者党)にまで貫徹することになる。領土を拡張する帝国主義と社会保険制度が表裏一体であるとは勝手な私の解釈だが、あながち的外れでもないだろう。戦前の日本も同様である。要するに、手段はどうであれ、国家の経済のパイが大きくなければ社会保険制度は充実しないのだ。
 現在の我が国の社会保険制度も、基本的な仕組みは戦前と同じである。その仕組みが現在、危機に瀕していることはよく言われることだ。しかし、この問題は思考停止になる分野でもある。みんな先のことはあまり考えたくない。政治の世界でもほとんど論議はされない。票になる話ではないからだ。
 超・高齢化社会とは、高齢者がさらに高齢化するという事態である。現在日本では、男性の平均寿命は約81歳。女性は約87歳といわれる。健康に関する知識はさらに普及し、ガンもそのうち克服されるかもしれない。平均寿命がさらに延び、定年制が70歳に延長されることは時間の問題だろう。しかし、どう考えてみても生産的に働くには年齢的な限界があるだろう。DNAに仕組まれた人間の寿命そのものは基本的に変わらないからだ(将来、遺伝子操作医療ができれば別だが)。
 これからもさらに寿命が延びるということは、長生きリスクはますます高まるということになる。家族単位で考えると、例えば100歳の親を75歳の子どもが介護し、その面倒を50歳の孫が看るということにもなるだろう。単純に考えて、50歳のこの孫が自分の親と爺さんを養うことが果たしてできるだろうか。50歳のこの孫は自身の子どもたちも養わなければならない。実際にこのような老老介護の問題はすでに起きている。
 現在も、多くの75歳以上のいわゆる後期高齢者は、生きていくためには、医療保険、介護保険、年金保険といった社会保険が頼りである(金持ち爺さんは別として)。そのうえわが国の少子化はますます進んでいる。たとえ保育所の待機児童をゼロにしても、出生率がそれによって上がるとはとても思えない。
 「長生きリスク」とは端的にいえば年金問題のことだ。現在も年金保険の積立不足の550兆円は国の借金(国債)で成り立っているという。いずれ破たんするのは時間の問題だともいわれている。
 しかし、今のところは年金保険の危機も、なんとか凌いでいるようにみえる。しかも、選挙ではクレイジイジやクレイバアバも1票を持ち、数では負けてはいない。いかにしてきちんと年金を生きている間にもらえ、充実した医療を受け続けることができるかが最大の関心事である。
 急に井上陽水の「傘がない」の歌詞を思い出した。
「♪ テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる。だけど問題は今日の雨、傘がない ♪」。 クレイジイジたちも若い頃は恋人に会う傘がないことが問題だったが、今の問題は「年金」である。ちなみに井上陽水は1948年生まれ。生粋のクレイジイジ世代である。 (その1 終わり)

せいちゃんとクレイジイジ(2019/05/06)

 孫娘のせいちゃんが、2か月ほど前から直立二足歩行を開始した。ちょうど1歳4か月ごろからだと思う。「思う」というのはしょっちゅう会っているわけではなく、たまに長男夫婦が訪ねてきたり、スマホの「ライン」で画像を送ってくるのでそう感じるのである。おそらくある日、突然歩き始めたのだろう。
 せいちゃん家族が、この5月の大型連休に、我が家の近くにある多摩動物公園に一緒に行こうということでクルマでやってきた。せいちゃんは、多少ぐらつきながらも、ほぼ完璧に直立二足歩行ができていた。「直立二足歩行」と、ことさら強調するのは、彼女の体重の半部はあると思われる大きな頭を、小さな体の上にチョコンと載せて歩く姿は、まさに約10万年前に中央アフリカで出現したホモサピエンスが、森の中を出て、サバンナを歩き始めた人類の夜明けを彷彿させるからである。直立二足歩行することで、この大きな重い頭を支えることができることが目の前で実証されている。
せいちゃんは、たまに会う私らのこともちゃんと覚えていて、会うとにっこり笑い、手を広げて抱っこをせがむ。こちらも自分の顔が砂糖にはちみつをかけたようになるのがわかる。長男夫婦は、せいちゃんに、「ジイジにこんにちはといいなさい」という。私はこの最近はやりの「ジイジ」というのがどうも嫌いで、「おじい様」「おばあ様」といわせるように仕向けているが実現できない。(クレイジイジの語源もここにあるのだが。)
 日本語の世界では、家族関係は一番歳下の子どもを基準に呼びあうようになるという。そのためか、せいちゃんが我が家にくると夫婦の間でも、私はジイジ、妻はバアバと言い合うことになる。せいちゃんは、言葉はまだちゃんと話せないが、たとえばあれを取ってきて、これを屑籠に捨ててきてというと、いわれたことをちゃんとできる。まさに直立二足歩行のおかげで、視野が立体的になり、動き回ることで言葉と周囲の関係が次第に分かるようになるのだろう。他の動物にはない知恵と行動を獲得するという人類史のスペクタクルを、孫娘はまのあたりに見せてくれる。
 せいちゃんは、ほっておくとどんどん歩き、表にも出ようとするので危険このうえない。クルマはせいちゃんがいようがいまいが関係なく周囲を走り回っている。彼女にとって、人間が一番危険な動物である。
 さて、家で一休みして、いよいよ多摩動物園にでかけることになった。5月の連休の真ん中なので大混雑が予想されたが、思ったほどではなかった。空はかすかに曇り、風も気持ちがいい。園内で、せいちゃんがもっとも気に入ったのは、さまざまな鳥類を集めた大きな鳥かごのような施設だった。人間に慣れやすいと思われる鳥たちを放し飼いにし、鳥類のサファリパークといったところだ、アヒルのような鳥が、ぴちょぴちょとおしゃべりながらすぐ足元を行列を組んで横切った。せいちゃんは最初はビックリしたが、ガーガ、ガーガといいながら追いかけ回して捕まえようとする。まさにホモサピエンスが鳥類に出会った瞬間である。太古であればとっ捕まえて焼き鳥にしたことだろう。
 そのほかにもオラウータンやヒョウやコアラの檻も見て回ったが、せいちゃんは木々や岩陰にいる動物たちを、私よりも早く見つけ指さした。これもまさにホモサピエンスが獣に出会った瞬間である。いまは檻の中の動物たちを眺めて喜んでいるが、サバンナでライオンやヒョウに出合えばこちらがエサになってしまう。息子はそうした人類の壮絶な歴史に思いを馳せることもなく、のんきに娘を肩車して檻から檻へと歩き回っている。
 せいちゃんは、私がだっこすると、私の禿げ頭を小さな手でぴちゃぴちゃ叩いたり、眼鏡をはずして自分でかけたりする。私もいっしょになって喜んでいるのだが、息子はしつけのつもりか「せいちゃんダメだよ」と叱る。するとせいちゃんはよほど悔しく腹立たしいのか、下唇が次第に出て泣き出す。人類が罰を受ける瞬間である。ママの話では、大好きなパパに叱られると、あまりにショックで腹立たしいのか、ママに八つ当たりすることもあるという。
 赤ちゃんから幼児にかけて、「ダメ」、とか「いけません」とか叱られ始めることは、生まれて初めて自由を制限され、自己を否定されるということでもある。人類史でいえば、禁止やおきてが発生する場面であろう。(息子が乳幼児の時は、そんな感慨に浸る余裕もなかったが、ついいろんなことを考える)。
 よく道端で2,3歳くらいの幼児がお母さんのいうことを聞かず、手足をばたつかせたり、泣き叫ぶ光景をよく見かける。そのころはま可愛さもあるが、子どもが中学生くらいになると手に負えなくなり、家庭内暴力にまで発展することもある。 最近はしつけと称して、幼児虐待にまで及ぶケースが社会問題になっている。赤ちゃんが幼児になり、自己主張が次第に強まるとき、親子の愛情や信頼関係が築かれていなければ、叱責や手を出すなどの暴力でしか制御できなくなり、次第に虐待にエスカレートしていく。 帰りに売店でレッサーパンダの小さなぬいぐるみを買ってあげたらせいちゃんはものすごく喜んだ。しかし、ジイジが会うたびに孫にモノを与えるのも問題かと反省した。家ではもらったおもちゃであふれているようだ。
 幼児が直立二足歩行を始めるということは、自分自身の歴史をつくるスタートでもある。せいちゃんは、これからどこへ歩んでいくのだろうか。

クレイジイジの感覚的都市論(2019/04/08)

 最近、私は友人の会社の仕事を手伝ったりしているので、都心に出ることも増えきた。その会社は、新橋からお台場に向かう「ゆりかもめ」で二つ目の竹芝駅にある。自宅の最寄り駅の多摩センターから朝7時頃出勤するので、通勤ラッシュに巻き込まれることになる。私が地方(佐賀)から東京に出てきて約50年ほどになるが、この東京の朝の通勤ラッシュはほとんど変わることがない。おまけに最近の東京は海外の観光客も多いので、大きなスーツケースを抱えた外国人もこのラッシュに巻き込まれ、なおさら酷い状況になっている。
 東京は西暦2000年台になってから、特に中央区、港区、墨田区、大田区など、東京駅から東京湾沿岸に添って高層ビル、高層マンションの建設が今も絶え間なく続いている。おまけに東京オリンピックの開催も近いので、いたるところが工事中である。 昨日(4月6日)、NHKテレビで東京駅周辺のビル開発の特集番組をしていた。その番組を見ていて納得がいった。1990年台のバブル崩壊後、特に丸の内界隈のビル街は「倒産通り」といわれすっかり寂れてしまった。それを何とか、シンガポールや香港という新興都市に負けない金融都市として再生するために、「空中権」とい土地所有の法律に目を付け、「空中権」を売買することにより、ビルの高層化を中心とした再開発を行ったという話であった。
 これらは森ビル、三菱地所、三井不動産といった大手不動産会社の主導によって行われ、当時の政府の規制緩和政策策が後押しした。要するに、この番組は、東京に高層ビルをどんどん建てて再生したというサクセスストーリーの話であった(もっともNHKらしく、東京中心の問題点にも触れていたが)。その結果が、現在も続く、東京における上記の地域の再開発、高層化ラッシュである。竹芝のあたりにも50階の大オフィスビルが建設中である。ここに働くことになる約3000名近い勤労者は、どのようにして通勤するのか気になる。近くにはJR浜松町駅があるが、今でもラッシュ時はホームから人が溢れ危険この上ない。
 ここへの通勤者は、郊外の自宅から1~2時間かけて通勤するか、近くの高層マンションに住んで通うしかないだろう。現に私の長男は、埼玉県の新座市から品川駅近くの高層ビルの会社まで、約90分以上かけて通勤している。私が住んでいる多摩センターや立川、そして八王子などは、一時期、第二副都心構想などが言われた時期があり、発展が期待された地域だが、上記した東京駅中心の大規模開発のあおりを食ってか、とくに多摩センターなどは、百貨店の建物が何度も売りに出されたりしている。
 東京でもこういう事態だが、日本全国レベルでいうと、東京の一極集中化がますます進み、人口減少とも相まって、限界集落ならぬ限界自治体も多く生まれている。 いまは東京に住んでいる、地方出身の我がクレイジイジたちの共通の悩みは、故郷に残した家や土地の処分のことである。土地を売るためには古い上物は解体しなければならず、解体処理費用が土地の評価額よりも高い場合は、朽ち果てるままにしている友人もいる。地方には若者の仕事も少なく益々都心に集まるので、多くの地方の土地は買い手がない。 要は、バブル崩壊後、東京の都市再生の切り札として「空中権」の売買などをもとにしたビルの高層化政策が、結果として、日本全体の都市や地方を変えてしまったということだ。 「部分最適解は全体の最適解にあらず」これが、超満員電車の吊革にぶら下がりながら、クレイジイジがつぶやいた感覚的都市論である。

クレイジイジ(12) (いつも世代は遅れてやってくる)(2019/03/12)

 私の出身高校である佐賀県立佐賀西高等学校(佐賀西高)では、毎年秋に東京都内の会場で、旧制の佐賀中学から数えると140年余りの伝統ある「栄城同窓会」を開催し、関東周辺から100人ほどが集まる。 私が初めてこの同窓会に参加したころは、まだ明治生まれの大先輩が数人出席していた。会の閉めには、旧制高校の「寮歌」を放歌斉唱したものである。 昨年秋に久しぶりに出席したら、いつのまにか私は大先輩になっていた。まさに同窓会とは、「少年老い易く学成り難し」の故事を繰り返す集まりなのだろう。 日本人もこれからはさらに人口が減少し、いずれは移民も増え、日本人とは何かを語ることはますます難しくなってくるだろうが、今、おおざっぱに日本人をあるカテゴリーで分類するとすれば、「世代」という区切りはまだ有効であろう。 ところで、その「世代」の話だが、私はこの「世代」についある発見をした。
それは、
「いつも世代は遅れてくる」ということである。
 つまり、その世代の者は、社会に登場するとき、いつも自分たちを「遅れてきた世代」と意識するということである。どういうかというと、ある世代が、これから社会に出ようとするとき、かれらは自分たち自身が作った時代に生きるわけではない。つまり、たえず彼らは、その前の世代が作った社会や文化の中で生きる宿命にある。そのため、どこかに違和感やズレをいつも感じながら生きることになる。その感覚とは、学校でいえば教師の世代と学生の世代のズレであり、会社でいえば上司や役員の世代と、新入社員など若手の世代との意識のズレである。これが「いつも世代は遅れてくる」という意味である。 当たり前といえばそれまでの話だが、時としてはこれが大きな問題となる。そのズレがもはや我慢ならないとき、その世代は「怒れる若者」、あるいは「失われた世代 (lost generation)」などと呼ばれたりする。
 クレイジイジたちが若かったころ,世界中で同時多発的に学園紛争が起きた。とくにフランスでは革命寸前とまで言われた。そのとき、世界は彼らを「怒れる若者たち」と呼んだ。因みに「失わせた世代」とは、第一次世界大戦後の戦争に参加しなかった欧米の若い世代を一般に指す。米国の作家、ヘミングウェイの世代である。日本でも戦後、戦争には参加しなかった(できなかった)昭和初期の生まれのものたちが、自らを「遅れてきた世代」と呼ぶものもいた。彼らの一部は安保闘争世代であり、前の世代にさかんに異議申し立てをした。
 クレイジイジの親たちの世代といえば、青年期を戦争という逃れることのできない時代に生きざるを得なかった。いわば彼らの前の世代が引き起こした戦争に、否が応でも付き合わせられたのである。この時代に生まれた運命を呪いながら死んでいった若者も多かったことだろう。わがクレイジイジの時代は、やはり前の世代の者たちが作った社会に、違和感や居心地の悪さを感じながら青年期を過ごした。日本全国に起こった大学紛争なども、簡単に言えば、その違和感に対する反発であったと思う。クレイジイジの学生運動では、大学の机などの器物を壊してバリケードにしたり、道路の敷石を剥がして投石したものも大勢いたが、そのことを理由に、逮捕されたものはほとんどいなかったと記憶する。戦争に行くでもなく、モノを壊しても逮捕はされない、考えてみればずいぶん身勝手な世代であったともいえる。
 それらに比較し、いまの若い世代は、まことに大人しい。暴走族というギャング集団もいなくなった。彼らは人口的にも少数派ということもあるのか、羽目を外して暴れたり、物を壊したりすると、すぐに特定され、逮捕されることにもなる。いまや小学生が学校の窓ガラスを数枚割っただけでもテレビニュースや新聞に載る。(こうした感想もクリジイジの世代感覚であろう。)しかし、どの世代も、青年期も過ぎると、そのうち怒りも消え、いつのまにかその時代にズッポリと嵌り。そのうち社会の主流に位置するようになる。そのあとに来る世代は、またきっとなにか世代的な違和感を感じているに違いない。 こうして、いつも世代は遅れて世界に登場するのである。

クレイジイジ (その9)<クレイジイジの恋愛事情 その2>(2019/01/29)

 さて、先回に続き、クレイジイジたちの若かりし頃の恋愛事情について述べたい。先回は、クレイジイジの象徴的な恋愛の在り方として「同棲時代」について語った。次に取り上げるテーマも、私のまことに個人的な体験で、統計的な裏付けのある話ではない。それは「恋愛と死」というものである。具体的には、私の中学時代のクラスメイトの2人の女性の恋愛に絡む自死の話である。
 その一つは、私の大学時代に起こったある女友達の心中事件であった。仮にR子としよう。彼女は中学校、高校にかけての同窓で、大学受験で上京し、東京の某・芸術大学で演劇の勉強をしていた。私自身も大学入学当時、演劇に興味を持ち、短期間であったが大学の演劇サークルに所属していた。2年生の秋、どういう経緯かは覚えがないが、R子から私に連絡があり、彼女らの大学の演劇に役者として出演しないかという誘いがあった。新宿の居酒屋で3年ぶりに会った。私は、そのころの興味は演劇から映画に移り、また彼女らの稽古場にかよう時間的余裕もなかったので、その話は断った。
 私の知っているR子は、物静かな、佐賀の商家のお嬢様のイメージしかなかったので、演劇にのめり込んで快活に話す様子に驚いた。私もそうだったが、都会の空気は、それまでの性格をがらりと変える力がある。彼女が演劇の話に熱中するあまり、私の靴をずっと踏みつけていた。私も、話を中断させたくなかったので、しばらく踏まれっぱなしで我慢していたことを覚えている。
 その後、その芝居の練習風景を見学し、またその舞台監督のN君ともあいさつを交わした。当時の演劇青年といえば、唐十郎、寺山修司などの影響を受け、前衛的な芝居で奇態な格好をしたり、身なりも無頓着なものが多かったが、N君はごく普通の地味なジャケットを羽織った学生であった。R子はNの演出助手をしていた。実際の舞台は私の都合がつかず、それも観ていない。
 それから3,4か月たった翌年の2月の冬だったと思う。帰省先の地元の新聞にR子が北海道の山奥の雪の中で、N君と睡眠薬心中を遂げて発見された記事が小さく載っていた。 この事件は、当時、同郷の同窓生に大きな衝撃を与えた。というのも、その前年だったと記憶するが、同じく中学校の同じクラスメイトで、R子とも仲良しだったE子が、恋愛のもつれで自殺していたからである。E子は、いま手元にある中学校の卒業写真を見ても、近寄りがたいというべき美少女だった。E子は欧州へ留学した恋人との仲が破たんし、自殺したと噂されたが、その真実は今もってわからない。
 R子の心中事件や、E子の自殺の真実が、何であったか、実際はなにが彼女らをそのような行動に向かわせたのか。50年以上たった今でもふいと思い出す。その時の真実を、いまさら知りたいとも思わない。ただ、それから50年も経って振り返ると。当時の恋愛事情と、その事件が、今日ではあまり見られない特徴を持っているように思われるのである。 一つは、その死に至るはっきりとした客観的な原因がよく分からないことである。二つ目は、きわめて劇場的であったということである。そして三つめは、その時代をやはり表現した事件であったということだ。
 自殺するにはそれなりの理由、追い詰められた事情や原因があるはずである。今なら、いじめ、過労死などで自殺するケースが多い。ストーカー的な無理心中事件も多発しているが、男女の合意のもとの心中事件など最近は寡聞にして聞かない。とくにR子は演劇をやっていたので、どこか芝居の道行道中を思わせるものがあった。R子は、一緒に住んでいた親しい女友達から餞別にもらったポンカンを雪の中で握りしめていたという。さらに言えば、そのように自分の最期の生を演出したかったのではないかとおもう。R子の手記等は残されていなかったようで、いまでも真実は謎のままである。
 当時の青年たちは、こうした、いまから思えば不可解な行為に走る要因が、時代のなかにあった。当時の若者の自殺事件で、後にその手記が本となり、いわばベストセラーになった書物がいくつかある。たとえば『20歳のエチュード』を書いた河野悦子がそれである。彼女の本は、われわれの世代に広く読まれ、その後、映画にもなった。彼女は1949年の生まれであるから、今生きていればまさにクレイバアバ世代である。
 少し世代が上だが、これも若くして1965年に自殺した奥浩平の『青春の墓標』という本も、当時の学生の間でよく読まれ、青年のロマンチシズムを掻き立て、これも知り合いでマネして自殺未遂したものもいた。
 全く意味も背景も異なるが、自死の演劇性においては、1970年11月25日に起きた「三島由紀夫の割腹自殺事件」も、当時の我々にとってそのメッセージ性は強烈だった。三島由紀夫が死んだ日、あまりにも日常が変わらなかったことが私には不思議であった。 R子が北海道で心中をするまさにそのときに、寺山修司の映画「書を捨てよう、待ちへ出よう」ではないが、北海道の周囲の雪景色の書割がみんな壊れて。R子とN君が新宿に突っ立ていたら、どうなったかと勝手に想像したりする。心中もみんなお芝居だと、その時にいえなかったのか。
 その後、もしいまも彼女らが生きていたとしたら、うちの夫婦が毎週やっているように、クルマで大型の生鮮食料品売り場に行き、今ごろ特売品を買いあさっているのだろうか。
 最近私が気に入っているアメリカのジャズ歌手ペギー・リーの歌に「Is That All, There is?」という歌がある。日本語でいうのなら、「これがすべて?もうおしまい?」という歌である。もし、これをR子もE子も見ていたらとしたら、自殺などしたのだろうかと思う。

You-tubeでも見られるからぜひ見てほしい。
「Is That All, There is?」(クリック)


クレイジイジ (その8)<クレイジイジの恋愛事情 その1>(2018/12/30)

 先回と同じく、クレイジイジたちが若かったころの歌からはじめてみよう。
「♪あなたはもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて 小さな石鹸かたかた鳴った 貴方はあたしの身体を抱いて冷たいねって言ったのよ 若かったあのころ 何も怖くはなかった ただ貴方のやさしさが怖かった ♪」 (『神田川』より 南こうせつ 歌・作曲 作詞 喜多條 忠 )
 クレイジイジ世代であれば、このあと私が何を言わんとするか、およそ見当がつくのではなかろうか。いまも時々、「懐かしのメロディ」のようなテレビ番組で南こうせつ氏が歌ったりしている。
 最近、23歳の青年に、この歌のことを訪ねてみた。まずはこの曲を知らなかった。スマホのYou-Tubeで聞いてどこかで聞いた気がするといった。さらに歌詞の意味は分かるかと尋ねたが、まず「横町の風呂屋」とは何かと聞いてきた。この青年は青森から上京して、都内のIT企業に勤務し、今はユニットバス付のアパートに住んでいる。この歌の情景が浮かばない。小さな石鹸がカタカタなったのは地震でも起きたのか、という感じだろう。今、東京に横町の風呂屋はほぼ完全に消滅した。クレイジイジの世代なら「神田川」が、彼らの若い頃の、男女の恋愛と同棲生活、そしてその別れを歌っていることはすぐに分かるだろう。むろん、同棲という男女の営みは昔からあった。結婚、婚姻という法律に拘束されない自由な男女の結びつき、そして暮らし方ということだ。しかし、この時代の「同棲」という言葉の響きは、当時の恋愛の在り方の象徴的な、意志的な表現であったように私には思われる。それまでの同棲という男女のありようは、駆け落ちや、様々な理由で結婚できない事情による、惨めなイメージがつきまとう「同棲」に対し、このクレイジイジたちの頃の「同棲」は、何か新しい、積極的な意思表明のようなものがあった。上村一夫の「同棲時代」というマンガもよく読まれた。これはその後、テレビドラマや映画にもなった。
 私にとって、この時代の「同棲」は、これまで述べてきた、クレイジイジたちの受験戦争、学生運動、特に地方から都会、東京への若者たちの大量流入とも関連のある、同じ文脈の時代の風景であったように思う。これは私の体験からもそう思うのであろう。 私は、九州の佐賀から病気のため、1年留年後上京し、浪人生活を送っていたが、すでに東京で大学生になった親しい友人が、同棲生活を始めていた。相手はこれも地方から出てきた女子大生であった。仮にM子としよう。 友人はたまたま井の頭線の電車の中で、向かい側に座ったM子と出会い、ひと月も経たないうちに、阿佐ヶ谷駅近くのアパートで同棲を始めた。浪人生活で、他に話し相手もいない私は、時々そのアパートに上がり込み、いっしょに鍋を囲んだり、たまに雑魚寝したりもした。私にとっては、M子の白くて柔らかそうな腕を抱き寄せながら煙草をくゆらす友人が、ことさらに大人びてまぶしかった。それに比べて自分の不安定な浪人生がミジメに思いながらも、大人世界に一歩、紛れ込んだような気分に浸っていた。そのころタバコも覚えた。
 佐賀のような地方小都市であれば、若い男女が町中を歩くだけでもすぐに噂がたつ。ところが、都会の中の、恋する男女は、何をしても許される自由な存在なのだ。私が通った予備校に、いつも気だるそうな、どこか魅力的な女性がいて話をするようになった。たまたま彼らの近所に住んでいたので、彼らに紹介して4人でお茶を飲んだりした。ところが、どういういきさつでそうなったか、その真相についても今はもうどうでもいいが、友人がその女性に手を出したとか出さないとかで、M子と友人がいさかいを始めた。M子は、結婚を意識していたようだったが、友人のほうは、自由な男女の関係を求めていた。M子が、周囲に「うちの人」といい始めたことに、友人は女房づらするなといったりした。M子から相談を受けたりして、私も受験勉強どころではなくなってきた。そこにアパートの隣室の別の男がM子に同情して絡んだりして、修羅場が演じられた挙句、M子はその隣室の男と田舎に帰ってしまった。友人もそうなるとまた追いかけたりしたが、結局、会えずじまいになりそれっきりになった。
 私にとっては、これがけじめであると自分自身に言い聞かせ、彼らにかかわらないことに決め、受験勉強に没入した。すでに秋も深まったころだった。(その友人とは今も親しい友人であるが、M子も予備校の女性もそれっきりである。彼女らもクレイバアバとなっているのだろう。)。その後も私の周囲には、同棲、あるいはプチ同棲のような関係の友人たちが複数いたが、結婚まで至ったものは、だれもいなかった。(お前はどうだったかと聞かれそうだが、全く同棲などには縁がなかったとだけいっておこう)。
 現在も、もちろん同棲という、法律的な結婚とは関係なく、男女が共に生活する形態はある。ただし、いまは、どちらかというと結婚のための「お試し入会」のようなものだ。しばらく一緒に住んでみて、問題なければ結婚しようという合理性と打算がある。現に、私の息子もそうして結婚した。結婚して、破たんし離婚するよりキズは浅くて済む。しかしこれも、別れるときはやはりそう簡単にはいかないようだ。現に、未婚の母親になった事例もこれまた多い。当時の同棲も、もちろん最初から別れることが前提ではなかったが、都会という砂漠の中で、偶然に出会った男と女が、恋をして、一緒になり、別れる。ただそれだけのような、純粋な、アナーキーな、つまり、そのころの時代の雰囲気が多分にあった。
 そういえば当時に流行った相良直美の歌を思い出した。
「♪あなとき あなたと 口づけをして あのとき あなたと 別れた  私 冷たい 女だと ひとは いうけれど いいじゃ ないの 幸せならば」
(『いいじゃないの幸せならば』 歌 相良直美 作詞 岩谷時子 作曲 いずみたく 1969年度レコード大賞曲) (続く)


クレイジイジ (その7)<クレイジイジたちの就職>(2018/12/16)

 「♪ 僕は無精髭と髪をのばして、学生集会にも時々出かけた。就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くはないさと、君に言い訳したね ♪」(荒井由実作詞・作曲「いちご白書をもう一度」より。その歌詞の一部)ユーミンこと荒井由実は1954年の生まれだから、クレイジイジの世代からは約5,6年若い。しかし、これほどクレイジイジ世代の就職時の心境を表した歌はないだろう。ちなみに「いちご白書」という映画も1968年ごろのアメリカの学生運動を描いたもので、日本では1972年ごろに封切られた。
 ユーミンに、歌詞のような体験があったかは知らないが、彼女はその時代時代の若者の心のありようを歌にして、多くのヒット曲を出している。 しかし、あらためてこの歌詞の解釈を試みると、なぜ「髪を切って、もう若くはない」と、おそらくは昔の恋人に対し、「言い訳」しなければならないのだろうか。いまの若い人にはこの歌詞にピンとくるものがあるだろうか。
 「言い訳」するというのは、まさに悪いこと、あるいは間違ったことをしたので弁解するのである。なぜ言い訳する必要があったのだろうか。
 ここからは私の解釈で異論もあるだろうが、当時の大学や学生の大方の雰囲気は反体制的であり、思想的には左翼、すなわちマルクス主義の影響を多分に受けていた。これらは統計的には証明しにくい「時代の空気」であった。またマルクス主義にも日本共産党系(代々木系)から新左翼系があって激しく対立しており、その新左翼もセクト同士で争ってしていた。大学の教授たちも、多くはマルクス主義に影響を受けたもの、あるいはそのシンパといってよかった。東京大学や京都大学の経済学の主流はマルクス経済学、いわゆるマル経で占められており、哲学、社会学、歴史学などへのマルクス主義の影響力は強かった。つまり、マルクス主義は当時、まさに大学の主流思想であった。  長髪、ジーパン姿の大学生たちは、左翼系週刊誌といわれた「朝日ジャーナル」とマンガ週刊誌「少年マガジン」を小脇に抱えているとよくいわれた。当時の学生のアタマの中身と大人にはなり切れない幼児性(のちにモラトリアム世代とも言われたが)をファッションとしてよく表しているように思う。
 そういう、今では考えられない当時の大学の空気、また世界的な反体制的な雰囲気のなかで、大学を卒業し、資本主義のまさに象徴である、銀行や商社、その他メーカー大企業に就職するということは、資本に対して、商品としての自己を売り渡すという意識が、当時の多くの学生の心のどこかにあった。それがこの歌詞でいう「就職して髪を切り、もう若くはないと言い訳した」のではないかと解釈したい。
 当時、「ひよる」とか「ひよった」という言葉も流行った。「日和見主義」からきたそのころの学生用語である。主体性のない思想や行動を、当時の学生はこう批判した。この言葉ももはや死語だろうが、この歌詞の男は、「ひよってしまった」という意識があったかもしれない。
これらは私の深読み解釈かもしれないが、おそらく同意してくれるクレイジイジ世代も多いだろう。私自身も、まさにそうした時代のなかで、就職という問題が、大学4年生のそれも9月頃に突然やってくるような感じで、これでは生活できないのではないかと慌てて就活をはじめた、いまから思えば実にいい加減で暢気な学生であったと思う。
 現在の大学生の就職状況をみると、大学の1年生から就職を意識し(あるいは意識させられ)インターンシップという企業の見習いを早期にさせられる。それを大学の履修単位として認める大学も多い。企業も青田買いや種モミの段階で年中採用を行っている。企業の就職協定などは建前に過ぎない。学生たちも、黒の同じようなリクルートスーツを着て、これも年中企業訪問をしている。「いちご白書をもう一度」の「言い訳」を、今の学生たちはどう解釈するのか聞いてみたいものである。
 そうして言い訳をしながら就職したクレイジイジたちはその後どうなったかというと、見事に社会に順応していった。当時の企業も採用時には寛容というか、どうせ一時の若者の熱病とたかをくくっていたのか、よほど逮捕歴等がない限り、学生運動経験の有無などは問わなかった。私の周囲でも、学生運動の闘士が、一流といわれる商社に就職するということもざらにあった。
 その後、クレイジイジたちは、企業において忠実に働き、日本の高度成長、バブル、その後の失われた20年といわれた日本経済の中核的人財として。時代をよくも悪くも動かしてきたのである。


クレイジイジ (その6)<受験戦争と学生運動>(2018/2/9)

 先日、数年ぶりに母校の大学を訪れた。いくつかの新しい建物は建っていたが、戦前からある時計台のある校舎などは、約50年前の、在学当時の雰囲気と少しも変っていなかった。そこだけを見ながら歩いていると、時間が止まったような不思議な感覚にとらわれた。キャンパスを歩く学生たちも、当時はジーパンや長髪の学生がやたら多かったくらいで、今の学生の服装やファッションともそれほど変わってはいない。声をかけても「やあ、シマちゃん」と返事をしてくれそうな気がする。
 風景で変わったところがあるとすれば、当時「タテカン」と呼ばれる、独特な太文字書体の政治的スローガンを書いた大看板が乱立し、そのわきでそれぞれのセクトを表す赤や青、黒のヘルメットをかぶった学生らが、スピーカーで、「われわれわー、権力の―、卑劣な行動を―」といった、これも独特の口調でがなり立てていた。おそらくそのような光景を知っているものも、この大学にもほとんどいなくなったろう(サークルや運動部の勧誘の小さなタテカンは見かけたが)。 クレイジイジたちの青年時代において、その時代の烙印があるとすれば、受験戦争とともに、それは学生運動であったろう。
 1960年台、クレイジイジたちが小学校3、4年生の頃には、いわゆる「1960年安保騒動」があった。私のような地方の子どもたちにとっては、当時の白黒テレビで見た、国会議事堂前のデモ隊や、岸信介首相が日米安保条約の調印式のため渡米する時の騒動などの映像記憶が残っている。「アンポ、ハンタイ、ワッショイ、ワッショイ」などといって遊んでいると、どちらかというと保守系の父親から「おまえはほんなこて意味がわかっていいよっとか」と怒られた。
 それから約10年後の1970年安保条約改定の時期にさしかかると、再び世の中が騒然となった。ベトナム反戦運動とも重なり、学生運動も世界的な運動になってきた。クレイジイジの世代は、人口が最も膨張した世代である(これはベビーブーマー世代といい、世界的な同時現象であった。)エネルギーがあり余っているうえに、受験勉強等で抑圧されたものが、マグマのように全世界に的に、一気に噴き出した感があった。おまけに、当時、東大や、日大などで、学生に対する処分の不手際や、学校経営に対する不満などが相次ぎ、大学を揺るがす紛争に発展し、それが全国に飛び火した。大学や教育制度は、旧体制からの抑圧の象徴でもあった。
 おそらく、ほとんどの学生は安保条約の条文なども読んだこともなかったと思うが、それはどうでもよく、毛沢東のいう「造反有理」、すなわち反抗することに意味があったのである。
 また、その反体制の思想的イデオロギーは、マルクス主義であった。が、これも当時の中ソ対立やスターリン批判などで一枚岩ではなく、新左翼などと呼ばれて、その解釈や革命方針で論争がおこり、さらにはセクト同士の殺し合いまでに発展していった。 私も、浪人時代、友人の勧誘で大学生主宰する小さな勉強会につれられてマルクスの「経済学・哲学草稿」の読書会などにも行ったが、正直ピンとくるものはなかった。ある理想政治を制度化してしまうと、その維持のために大きな抑圧が生まれるのではないかと直感的に思った。事実その直感は間違いではなかった。それから30年も経たないうちに、世界の社会主義圏は崩壊したからである(北朝鮮も社会主義国家といえるかどうかも議論があるだろうが)。
 私の高校卒業の年は、前年に東京大学の安田講堂占拠事件などが起こり、東大入試が中止になった年であった。このころのクレイジイジの世代は、どの時点で大学に進学したか、大学紛争に遭遇したかで、その後の進路や人生に違いがある。私は、高校時代、病気休学したので、大学紛争の絶頂期には少し遅れてきた世代であったが、私より1年先に現役で大学に入学したものは、まさにその渦中にいた。大学の授業が長期にわたって受けられないものもいた。
 私の勝手な分類だが、当時、学生にも大きく3つのタイプに分かれていた。学生運動や政治運動にのめり込むタイプ。2つ目は、大学や政治に不満がありながらも、大学の授業は適当に受けるいわゆるノンポリ(ノン・ポリティカル)学生。3つめは、入学した大学では、紛争などのため、思っていた学問ができないと失望し、大学を変わったり、退学したり、海外に留学したりしたタイプである。
 私はまさに2つ目のノンポリ学生であったが、ここも大きく三つに分かれ、特に党派には属さない、主に全共闘及のシンパタイプ。2つ目はこれも当時ブームだった、サルトル等のフランス実存主義的なものにかぶれた文学・芸術タイプ。3つ目はまったくそれらにも関心を持たず、麻雀やダンスパーティーなどの遊びに明け暮れるタイプだった。私は、当時、演劇や映画に関心を持ち、そうしたサークルを仲間と立ち上げたりしていたので、どちらかといえば2つ目のタイプに属したろう。さらにいえば、心情的、雰囲気的な全共闘的芸術派、ようするに「どっちつかずの曖昧派」であった(というと当時の私を知っている友人は大笑いするかも知れないが)。
 大学のクラス担任(第二外国語のコースでクラスが分かれて担任がいた)のリルケが専門のドイツ語教師が、何かのクラス討論にオブザーバー的に参加したとき、ポツンとひとりごとのように
 「今の時代は、君たちのようなアナーキーな年代に合っているからな」とつぶやいた。どこか皮肉を感じたが、妙に自分にピッタリあう言葉だったのでよく覚えている。 いまから考えると、地方から東京に出てきて、華やかな都会の街並みや生活に幻惑され、混乱した思想状況に放り出されて、それをいいことに、適当に泳いで生きていたという感覚は残っている。高度経済成長もまだ続いていて、バイトすれば十分食べていけた。 それより30年前の私の父親の学生時代は、学徒出陣により、学業途中で戦場に強制的に駆り出された世代である。多くの学友たちも死んだ。
 父は県庁に勤めていたので、当時の地方公務員の安い給料で、毎月私に仕送りをしてくれていた。親父たちは、自分たちの失われた青春を、子どもの世代に託したかったのかも知れない。このことを今にして思うと、情けなく、申し訳なく思う。(もっとも、それから30年後、自分の息子たちのことで、因果はちゃんと巡ってくるのだが。)
 我々クレイジイジ世代にとって、この「学生運動の時代」をひとことでいうならば、「戦争で死ねなかったお父さん」の息子たち、つまり、「戦争を知らない子どもたち」のアナーキーで、あいまいで、そしてなぜか幸福な時代であったのかも知れない。


クレイジイジ (その5)<受験戦争の時代)>(2018/11/19))

「戦争」を語るとしたら、クレイジイジ、バアバにとっての「受験戦争」について語らないわけにはいかない。
 文部科学省の統計では、現在の大学進学率は50%を超えている。クレイジイジ世代、すなわち団塊世代の大学進学率は約25%である。ただし、進学する学生の絶対数をみればクレイジイジの世代が断然多い。単純計算してもクレイジイジ世代の一学年の大学生の数が約65万人だとすると、現在の大学生の一学年の学生数は約55万人という数になる。当時は現在ほど大学の数は多くなく、また学部も多様ではなかった。そのため狭き門に多くの学生が殺到することになったのである。
 私が受験を意識し、高校受験に向けて受験勉強を開始したのは、中学生の3年ごろからであったが、家庭環境およびそのころ暮らした佐賀という地域の雰囲気から受験を意識させられたように感じる。
 佐賀は、江戸時代末期ごろから、鍋島藩の政策で学問を奨励し、その序列によって下級武士でも出世の道が開かれていた。そのため多くの明治維新の功労者を輩出した土地柄である。(現在も佐賀では、明治維新150年、「佐賀の七賢人」などと観光がらみのキャンペーンをやっている。大隈重信、副島種臣、大木喬任ほかがいる。)、私の祖父も親もそうした雰囲気の中で育った。
 こうしたいわば学歴至上主義は、佐賀だけでなく、明治の学制の制定以来、日本全国に及んだ。階級や門閥ではなく、学問の優位性によって高い地位や職業を獲得しようとする学歴主義は、我が国の急速な近代化に大いに寄与した。その規模や内容は変化しながらも、今日も、また将来もおそらく根強く残っていく制度であろう。戦前は「富国強兵」の中で、陸軍士官学校、海軍兵学校などの「強兵」においても学問を重視するエリート集団が存在したが、戦後は「富国」のための大学進学だけに収斂する学歴主義だけが残った。
 クレイジイジたちの多くは、ほぼ共通した「受験戦争」の青春時代を送ってきたと思う。(たびたび断っているが、この世代のすべてがここでいうクレイジイジではない。同じ世代の、突出したある塊(かたまり)を、半ば世代の自画像として述べていることをあらためて断っておきたい。)このような「受験戦争」が他の国、例えばアメリカやヨーロッパにあったのだろうか。「受験戦争」を意味する英語はないようだ。(unversity entarance exeamination competition )すなわち「受験競争」とは言っても「戦争(war)」 とはいわないだろう。ヨーロッパなどは、若者の進路は、もっと階級的であり、かつ多元的である(特に英国など)。
 世界の教育制度は国ごとに異なるので、単純比較はできないが、日本、および韓国や中国など東アジア特有の苛烈な受験競争は、中国の科挙制度の影響もあるといわれるが、特に1970前後のクレイジイジたちが経験した「受験戦争」は、その規模においても、世代に与えた影響においても、まさに「戦争」といってよかった。 近現代において国民的な戦争が起これば、その国で生きた若者にとっては逃れることのできない宿命である。そういった意味では「受験戦争」という呼び方が、クレイジイジ世代にはピッタリであろう。
 現在も、一部のいわゆるブランド校の競争はいまだに厳しいが、こんにちは少子化の時代で、大学側が多額の広告費を投じて、学生をお客様として呼び込む時代である。背景として、現在は、少子化に加え、大学の数が多すぎるのだ。倒産する大学、閉鎖する学部も増えている。
ところが、クレイジイジが大学受験する頃は、マンモス大学などもあったが、まともな大学に入るためには、まさに彼らは「銃をペンに替えた」戦争にさらされたのである(「学徒出陣」の逆の表現だが)。経験的にいえば、まず高校進学で進路が振り分けられ、また大学受験で選別される。そのため普通高校も序列化され、制服、徽章なども決まっており、まさに心身ともにレッテルが張られてしまう。
 私が進んだ進学校では、毎回、模擬試験の結果が名前入りで張り出された。上位に名前があれば誇らしい気持ちになるが、そうでなければあまり面白くはない。親しい友人との関係もどこか滓(オリ)のようなものが溜まっている。
 当時、よく読まれた小説にヘルマン・ヘッセの「車輪の下」があった。主人公のハンスが、当時のドイツの学校制度の下で、押しつぶされていく話だが、多くの同級生が共感をもって読んでいた。(いまは、とても若い世代が読んでいるようには思えないが)。 私自身も、高校時代は、腎炎で長期の入院も経験したこともあり、青春の色彩のかけらもない時を過ごした思いが強い。そして、おおくの彼らの父親たちの世代が、戦争体験をあまり語りたがらなかったように、当時の受験時代のことをクレイジイジたちはあまり語りたがらない。それ自体にあまりいい思い出はなかったからだと思う。もしも、クレイジイジたちに当時のころの体験談を語らせれば、受験戦争版の「聞け、わだつみの声」が聴けるかもしれない。


クレイジイジ (その4) <戦争ごっこの世代>(2018/11/14)

 クレイジイジ、クレイバアバたちは、親や祖父、曾祖父たちが、戦争の時代に生きていたこととは違い、今日まで、戦争を体験することなく、70年近く生きて来た。これは現代世界では希有なことである。もちろん、1945年以降に生まれた日本人はすべてそうであるが、しかし、このクレイジイジたちは、前でも述べたように戦争の影の下で育っている。特に子供のころの男子は、どこか軍国少年的な雰囲気がまだ残っていたように思う。
 私の育った佐賀市内には、ところどころに畑があって、耕した土の塊がごろごろ転がっていた。それを子どもたちは二手に分かれ、たいてい敵は隣の地域の子どもたちだったが、泥の塊を投げ合うのである。泥が雪であれば雪合戦だが、泥だから当たれば相当痛い。ときどき泥が石に変わることもあり、コブを作って泣いている子もいた。 後日、学生時代に、愛知県の尾張から来た友人にこのことを話すと、自分たちは手製の弓矢で、それも矢の先にクギを巻いてやっていたという。さすがに織田信長が出たところは違うと妙に感心したものである。
 子ども時代の遊びは、ほかにも「駆逐・水雷」、「陣取り」、「肉弾」とか、まさに戦時中に流行ったような名前の外遊びがまだあった(おそらく今の子どもは誰も知らないだろう)。竹や棒を振り回してチャンバラごっこもよくやった。今から考えると、よく大人たちがこうした危ない遊びを止めなかったと思うが、戦時中から続いていた、普通の子どもの遊びであったということだろう。
 とにかく近所には子供がうようよいて、青洟をたらした子ども多かった(こうした子供は、今ではまったく見かけなくなった)。女の子であれば路地で、手毬つきかゴム飛びなどを、唄を歌いながらのどかに遊んでいた。
 70年以上も日本が戦争に巻き込まれなかったということは、戦後の平和憲法のおかげかも知れないが、戦後の米ソ冷戦体制のなかで、その中間に位置する島国といった地理的条件や、自衛隊を創設しながらも(アメリカに促されてであるが)憲法第9条を理由に、国際社会でうまく立ち回ってきたということもあるだろう。(これはまた別の議論になるのでここまでにしよう。)
 いずれにせよ、このクレイジイジ世代は、戦争中の残滓をどこかに背負ってきた世代である。1970年前後に、全国に学園紛争が吹き荒れ、多くのクレイジイジたちも、その渦中のどこかにいたが、当時、全共闘系のひとりの友人が、「学園闘争は俺たちの世代のケンカだぜ」と吐いた言葉をよく覚えている。
 たしかに、このときの学生運動は、今から思うと、どこか泥投げ合戦、石投げ合戦の延長といえなくもなかった。神田駿河台で敷石を剥がしての投石騒動(駿河台カルチェラタンとも言われたが)は文字通りそうだった。学生と警官隊の衝突も角材(ゲバ棒)とヘルメット、盾の衝突である。むろん激突すれば大怪我はするものの、死者はほとんど出なかった。つまりどこかに遊戯的な要素があった。東大安田講堂占拠事件もそうだろう。しかし、連合赤軍派による浅間山荘事件は、その暗黙の遊戯ルールから大きくはみ出した事件であったように思う。ここから学生運動は急速に下火になった。  これがもし、今のアメリカのように銃を持つことが簡単にできたなら、ゲバ棒が次第にエスカレートして内戦状態になったかもしれない。クレイジイジたちは、戦争ごっこはやったが戦争はやらなかった世代である。


クレイジイジ、(その3)<戦争を知らない子どもたち>(2018/11/10)

 クレイジイジ、クレイバアバが誕生したのは、1947年から1949年の間とされる。ここで筆者自身の立場も明らかにしないといけないだろう。私は1949年の生まれである。ということは、これは自分を語っているといっていい。自画像は、その特徴や長所欠点は誰よりもよく表現しているハズであろう。譬えとしては恐れ多いが、ゴッホの自画像を見ればそれが分かる。自分の耳を切り取った後の自画像である。その痛みが伝わってくるような絵である。
 1949年というと、終戦の年からまだ4年しかたっていない。まさに戦後である。そのころ我が家では、戦争中は海軍の退役軍人だった祖父は、私がまだ1歳にもならない冬に心臓の病で60歳で亡くなった。祖父の顔は覚えていない。父は学徒出陣で戦場に行き、まさに九死に一生を得て故郷に帰り、母と見合い結婚した。
 3,4歳ころはかすかに記憶がある。祖母のほかに、家には結核で自宅療養をしていた叔父(父の弟)が離れで療養していた。また、庭に小さな小屋があり、戦争未亡人であった祖父の妹(お婆さんだったような記憶しかない)がいた。私のすぐ下に妹がいた。それらが同居する大家族だった。父は県庁の公務員だったが、家族を養うには薄給だったろう。母がいつも月給袋を見て愚痴をこぼしていたことも記憶にある。
 幼稚園の頃だったか、佐賀市内にある公園に花見に行ったとき、白い着物を着て、義足や義手姿で、アコーデオンのようなものを弾いている数人の集団があった。彼らはカーキ色の帽子をかぶり、白い箱を首から下げ、花見客に物乞いをしていた。物乞いにしては何か威張っているようにも思え怖かった。父にあの人たちはだれかと聞くと戦争に行って怪我をした人たちだといったが、あまり関わりたくないようだった。こうした人たちは行楽地などでよく目にした。家庭での普段の食事もまだ貧しかった。卵が貴重で、我が家では療養中の叔父しか食べていなかった。
 小学校に入ったころだったと思うが、うちにあるモモの缶詰に穴をあけて中のシロップをすすって飲み、そのままこっそり戻したことがある。しばらくたって中身の腐敗したその缶詰が出てきた。祖母からはひどく叱られたが、戦前はお嬢様育ちであった母は、不憫に思ったかしくしく泣いていた。
 その後、日本も高度成長となり食べ物の量も種類も年ごとに豊かになった。バナナなどは小学校の高学年ころからふんだんに出てきたと思う。われわれクレイジイジの世代は、幼児期に、こうした欠食時期を共通して経験しているので、学生の頃はすき焼鍋などを囲むと肉の争奪戦になった。今でもバイキング形式のパーティーでは真っ先に群がり、とにかく腹を満たそうとするのはこの世代である。残されたご馳走も気になり、つい食べ過ぎてメタボになる(私のことであるが)。家庭でも、多少腐敗臭がしても、腸内細菌を増やすといって平気で食べるので妻や娘たちからは嫌がられる。
 現在の日本では、餓死したり、食べ物を漁って回るような光景はめったに見かけるものではない。季節の野菜も年中出回っている。しかし、世界では今日でも餓死したり、食糧難の地域は多い。人間は食い物がなければ死ぬ。食べるためには犯罪や殺人もするだろう。戦争の本質は、自分や家族が食べるために他者を殺す行為である。他国への侵略もその理由は「生存圏の確保」である。あらゆる動物とその本性は全く変わらない。
 クレイジイジやバアバたちは戦争の経験はない。しかし、戦争の影は知っている。彼らの若いころ「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが流行った。つかこうへいの芝居に「戦争で死ねなかったお父さんのために」という戯曲がある。戦争で死ねなかったお父さんに育てられた、戦争を知らない子どもたち。」それがクレイジイジの本質といってもいい。(続く)


クレイジイジ、(その2)<なぜ現在、この世代はクレイジイジ(crayzyji)と呼ばれるのか>(2018/11/4)

 誰がそう呼んだか定かではないが、想像するに英語のcrazyと日本語の爺さんを最近「じいじ(jiiji)」と呼ぶことから英語的造語であるというのがもっとも有力な説である。 英語のcrazyは、英和辞典によると「気が狂った、正気でない」のほか「夢中で、熱中して、ほれ込んで」という意味もある。いずれにしてもあまり普通ではなく、ちょっと異常さを感じる言葉だ。イカれたという言葉がニュアンスとして近い。そう言えば1960年台だったか。「俺はあの子にイカちまったヨ」などの言葉が若者の間ではやっていた。確かに若者の恋愛はいつもクレイジーである。
 crayzyjiのタイプにもいろいろあるので、あまりステレオタイプすることも問題だ。 家の中に引きこもりテレビばかり見ているタイプもある。これらは世の中にもあまり出ずひっそり生き、たまにスーパーに買い物にいったり、犬の散歩をしたりするのであまり目立たない。大体、会社で体力、気力を使い果たしたものが多い。仕事はもうたくさん、おうちが一番というタイプだ。
 もう一つのタイプは(これがクレイジイジの典型といえるが)、はたから見れば、ちょっと「はしゃぎすぎ」といわれたり、「多動性」といわれたりするタイプである。やたら電車の中やバスで目に付く集団がこれである。ウィークデーの昼間の電車の大半は、このタイプで占領される。
 オスの典型的なファッションはキャップにスニーカー、チェックの長袖シャツにジーパンというのが典型だ。要するに、彼らの学生時代とあまり変わらないファッションで服の中身が変わったと思えばよろしい。
 メスのジーパン姿はあまり見かけないが、おしゃれなパンツ、大ぶりなアクセサリー、イヤリング、明るい化粧、色も暖色系が多く、昔の年寄りファッションの煮占めたような茶系の服はまず見かけない。この層は、3,4人の集団で移動することが多く大声でおしゃべりなので、電車の中で最も目立つのですぐ判別が可能である。
 先日、筆者は東京都八王子の高尾山に登ったが、ほぼ8割はこの多動性タイプのクレイジイジやクレイバアバで占められていた。彼らが学生だった約50年前だが、「合ハイ」というものが流行ったことがある。若い男女がグループで日帰りのハイキングに出かけ、カノジョ、カレシを見つけようというものだ。最近の若い者に「ゴウハイ、て知ってる?」 と聞くと、「何それ」といい、説明すれば一笑される。当時「ダンパ(ダンスパーティー)」というものもあったが、最近はこうした優雅で手の込んだものは流行らないらしい。だいたいは「合コン」「合コンパーティー」のようなものだ。「合カラ(カラオケパーティー)」もあるかもしれない。いずれにしろお手軽に、安上がりになったものである。
 クレイジイジとクレイバアバの合ハイの会話の内容は大体こうである。「ボクは、毎日ジムに通ってるんですよ。近所の区の施設ですがね。マシーンなど使って一汗かくとたまりませんね。」「あーら、あたしはスイミング。最初は50メートルも泳げなかっけどいまは300メートルは一気におよげますのよ、ほほほ」
 要するに残された体力、持病、および健康法の自慢話である。これが50年前の会話であれば映画の話とか感動した本の話とかであったろう。つまり若い頃は精神的な会話。いまは肉体的な会話が主流といってもよいだろう。
 筆者は、たまたま祖父の時代の(明治30~40年台の産まれだが)彼らの平均寿命を調べたが、男では50歳も満たない。夏目漱石は49歳で亡くなっている。今から思えば短命だが、当時は普通であったろう。女性もおそらく60歳前後であったろう。ところが現在は90歳近づこうとしている。なんとほぼ30年も寿命が延びている。最近は人生100歳時代といわれだした。いずれにせよ寿命がひと世代あまり伸びたことは、クレイジイジ、クレイバアバが多く出現する環境要件の一つであることは間違いない。 (つづく)


クレイジイジ(その1)<クレイジイジの語源、そのいわれ>(2018/10/27)

 クレイジイジ:(英語表記 crayzyji)ホモサピエンスの一種であるが、日本という島国で突然変異した新種ともいわれる。このなかでオスをクレイジジイと呼び、メスはクレイバアバ(英語表記 craybaba)という。英語のcrazyと日本語のジイジ(爺ジイともいう)の合成語のようである。この島では、最も多い人類であり、人口ピラミッド的には西欧棺桶構造(ドラキュラが入っている棺桶の形を思い出してほしい)のもっとも膨らんだ層に当たる。その中心が日本社会では「団塊の世代」(generation of dankai)(baby boom generation)といい、2020年には確実に70歳台前半を構成する。また、2040年頃までにはほぼ9割は確実に絶滅すると言われている。
 この世代の1948年生まれは約270万人である。こんにち2017年の日本国における出生数が100万人前後のことを考えるとほぼ3倍弱といっていいだろう。 日本の太平洋戦争の敗戦の1945年からたった3,4年で、なぜこんなにも多くの赤ん坊が産まれたのか。日本の最も貧しい時期の劣悪な環境下で、なぜこんなにも出産ラッシュがあったのか謎とされている。アメリカでも似た現象が起きたが、彼らは戦勝国で物資も日本よりはるかに豊かだった。
 現在、日本では少子化と騒いで出産を促す様々な政策がおこなわれている。例えば保育所の待機児童ゼロなどがそれだ。しかし、出生率はますます下がっている。おまけに男女雇用均等の時代である。保育環境を整えれば整えるほど女性は苦痛をともなう出産や退屈な子育てより、仕事をしたいに決まっている。おまけにこの国では結婚しない層も増えているのだ。これは、若いうちにお互いを知りすぎた(主にメディアを通してだが)ことも原因であろう。互いに憧れでも神秘でもなくなったのである。かりに結婚まで至って、2人の子どもを育てたとしても、日本の人口は確実に減る。今どき、3人の子どもがいるのは希少家族であり、5人もいればテレビ取材が殺到する。
 想像するに、戦争中の若者たちは、生死の間をさまよい、その間、男女が互いに触れる機会が少なく、男女は互いによく知らなかった。また恋愛結婚などもごくまれな話で、いわば、えり好みしなかったのである。それで戦後、男女とも集団発情し、結果として大量の赤ん坊が産まれたのであろう。以上は私の勝手な仮説だが、再検証のしようがない。 こういう集団発情の環境で生まれたので、この団塊世代が特異な、変わった集団かどうかはわからないが、若干の因果関係があるのではなかろうか。
 つまり、クレイジイジたちは、やはり特殊な環境下でその後の人生を歩かざるを得なかったのである。なんせ人口が多いだけに自分たちが主流で、特殊な人間集団と思うよりも、フツーだとずっと思いこんで生きてきたのである。しかし、はたから見ればかなりクレイジィな集団である。
 これから数回にわたり、このクレイジイジの生態を参与観察した結果をご報告していきたい。(続く)


スマホを持ったサル(2018/9/2)

都会の電車はスマホを持ったサルたちで一杯だ。みんな片手で何やらいじって いる。わざわざ両耳にイヤホーンで繋げているサルもいる。覗くと、そこには いろんな画面がある。色とりどりのブロックを親指で器用に動かしているサル。 アニメを見てニヤニヤ笑っているサル。スマホは鏡のように自分の顔を映すこ ともできるようだ。それを見ながら化粧をしているメスザルもいる。みんな他 のサルには無関心である。覗き込んでも何も文句はいわない。ただ、自分の空 間だけは誰にも侵されたくないので、同じ格好でこわばっている。体は揺れな がらそれぞれの形で固まっている。
 都会の電車はスマホを持ったサルたちに占領されている。しかし、占領しよ うがされまいが、かれらには知ったことではない。この電車が突然大地震で地 中深く埋まったとしても、きっとこのサルたちはスマホを離さないだろう。数 千年後に電車が掘り起こされて、それぞれ四角い塊を持った同じ格好のサルの 化石が発見され、みんなの見世物になるにちがいない。
 スマホを持ったサルは、電車を降りてもそれを離そうとしない。歩きながら も固まっているので、時々他のサルにぶつかっている。
 サルはまだ気づいていない。サルはスマホを持っているつもりだが、実はス マホがサルを持っているということを。そのことに気づいたサルはごく一部の ようだ。
 実は、最近私もそのサルの仲間に入った。うかつだったが確かに楽しい。電 車に乗っていることも忘れてしまう。もうスマホなしでは生きてはいけない。 今日もスマホを持ったおおぜいの仲間のサルたちが電車に乗っている。この電 車はいったいどこに行くのだろう。


熊谷守一展を観て ―こころは進化することを確かめた一日―(2018/4/7)

 この3月、久しぶりに展覧会に行った。国立近代美術館で開催された熊谷守 一絵画展である。今回の展覧会も女房のお供である。女房はじっくり絵画を鑑 賞するのが好きなようで、大体3時間以上は観て回る。細かな筆のタッチやその 絵に秘められた謎を解くのが好きらしい。ところが私は30分も見ると飽きてし まい、出口付近のショップで土産物を触ったり、喫茶店でビールを飲んだりし ている。今回も、熊谷守一という画家は知らなかった。女房はテレビの美術番 組を見てよほど感動したらしい。
 いつものようにざっと見てショップにでも行こうと思ったが、熊谷守一の作 品が、時代ごとに展示コーナーがあり、その作風が年齢とともに変わっていく のが面白く、久しぶりにゆっくり絵を楽しんだ。 熊谷守一は明治13(1880)年、岐阜県の生まれで、昭和52年、97歳で亡くな った。興味を持ったのは、高齢になるにつれ、作風がモダンになり、色づかい が独特かつ単純化されていく。どこか漫画やイラストデザインに見えなくもな い。渋い色合いが新鮮である。それが私のつたない絵画評でいえば「モダン」な のである。
 この猫の絵は80歳頃の作品だそうだが、私のいっている意味が分かって頂け るのではないだろうか。(牝猫 1959年) 私は、この熊谷守一の作品が高齢になるほど変化し、かといって極端な抽象 絵画にはならず、独特のユーモアのある絵に進化していくことに興味を持った 。モネやマチスといった画家も、高齢になるとともに進化していった画家だが 、守一には、彼らの作品のような大作はない。
 人間は歳を取ると、当たり前だが特に身体も知力も衰えていく。画家にとっ て大切な視力も低下する。しかし、守一のように、芸術的な感性や表現面は進 化していくのではなかろうか。今回のそのことを確認できたような気がした。 なんだか嬉しくなり、熊谷守一の画集(3000円!)まで買ってしまった。それ によると、晩年は豊島区千早町に住み、周囲からは「仙人」といわれるような 生活だったらしい。ただその暮らしのなかで、いつも何かを発見し、それを絵 に表現することを大いに楽しんでいたという。 「人にはわからないことを、独りでみつけて遊ぶのが、わたしの楽しみです。」 といっている。(『熊谷守一画文集 ひとりたのしむ』より。) 近く、俳優の山崎勉が守一を演じ、樹木希林がその妻となる『モリのいる場所』 という映画が公開されるようだ。これもぜひ観たい。


ニッポン教育、指導のジレンマ(2018/2/9)

 2月8日、世界囲碁選手権において、現在日本の囲碁界最強の7冠棋士であり、国民栄誉賞に輝く井山裕太氏が、弱冠19歳の中国棋士、謝爾豪氏に敗れた。ザル碁を自認しながら囲碁ファンの私は大変なショックをうけた。このショックは単に日本の最高棋士が、中国の若手棋士に敗れたというだけのことではない。日本の囲碁棋士を生み、支えてきた我が国の育成、教育のシステムそのものが敗れたと思われたからである。 2月2日、NHK朝のニュースの特集で、この謝青年を育てた武漢の子ども囲碁教室を紹介していた。
 観て驚いた。中国棋院の下部組織であるこの教室では、小学生から中学生までの子どもたちに、英才教育を施している。問題はその指導方法である。かれらは練習対局のときでも勝負に現金をかけるのである。だいたい1局1500円くらいの金をかけるという。対局を終えたらすぐ盤上で金のやり取りをしていた。それだけでなく、負けた子供に対して先生がみんなの前で罵倒しているのである。さらに追い討ちをかける様に、その負けた子供を壁に向けて何時間も立たせていた。これはわれわれの今の感覚からいえば体罰といっていいだろう。指導者へのインタビューによれば、負けることの恐怖を植え付けさせるためだという。そのせいか子供たちも命がけである。必死で勉強する。学校も行かない子供もいるようだ。ここからは想像だが、この指導方法は、囲碁のみならず、中国では、あらゆる勝負に関する芸事やスポーツで、普段に実行されている指導メソッドではなかろうか。 仮にこの指導方法を日本棋院がやったとしたらどうであろうか。日本棋院は子供たちの心を踏みにじり、子どもの心を傷つけ、人権を無視した団体として、マスコミ始め世の糾弾を浴びるだろう。最後は毎度おなじみとなった謝罪記者会見となり、幹部がいっせい頭を下げるパフォーマンスをやるに違いない。
最近は学校でも厳しい指導はご法度である。教師が子供を厳しく指導した結果、子供が登校拒否になり、ましてその子が自殺ということになれば、その学校の校長や教育長はマスコミに糾弾され、彼らのクビも飛ぶ。
 私が中学生の頃、もう50年以上も前の話だが、子どもたちに恐怖や肉体的な苦痛を「愛のムチ」と称して指導することは普通にあった。私は地方の中学校のバレーボール部に所属していたが、対戦相手の中学教師が、試合でミスした子供を目の前で激しくビンタをくらわす場面をよく目撃した。多くの父母も見ていたと思う。私もそれを見てガタガタ震えた。幸いにも私の中学校の指導者は紳士的な先生で、そうした暴力制裁は一切しなかった。だから今でも肉体的苦痛を伴う教育的指導は好きになれない。しかしこの暴力制裁教師のいるバレーボール部はやたら強く、県大会でも優勝したりした。当時は東京オリンピックの開催などもあり、ニチボー貝塚の大松監督のスパルタ指導が賞賛された時代でもあった。 現在は教育現場ばかりでなく、企業においても厳しい社員の教育や指導はパワハラ行為としてご法度である。最近の事例では、電通の女子社員の自殺事件であろう。母親も泣いて電通を糾弾した。しかし、正直、私らの年代の人間(団塊の世代であるが)は、何でこのくらいのことで自殺しなければならないのかと思ったはずである。電通の社是とされる「鬼十則」は、多くの企業の社訓や社員教育の参考とされ、書店のビジネス書コーナーの定番本であった。この事件後、電通は「鬼十則」の否定、社長の退任までに至った。さらには安倍政権の「働き方改革」にまで影響を及ぼしている。
 話を囲碁に戻そう。日本はこの13年以上、世界レベル、すなわち中国や韓国の棋士に勝てない。世界の棋士上位50人の中にも日本人は2人くらいしかいないという。井山裕太氏さえも13位である。囲碁も勝負の世界である。勝者と敗者の差は歴然である。さりとて中国の囲碁指導のように金のやり取りと、恐怖で奮い立たせるやり方は、いまの多くの日本人は受け付けない。耐えられる子供たちもいないだろう。私も自分の子供や孫にもやらせたくない。
 しかし、あらゆる勝負ごとは、勝者と敗者に完全に分かれる世界である。勝ち負けにとらわれず、ゲームの世界に遊ぶような心境になればよいが、これはよほど達観したプロ棋士か、趣味のアマチュアの世界だろう。 日本でも有名タイトルには、高額の賞金が副賞として必ずある。かつては故・藤沢秀行氏のように賭け碁で強くなった棋士も大勢いた。その意味では、中国の囲碁指導のように、子ども時代からお金を意識させるのは、あまり美しい指導法とは思えないが正直なやりかたなのかも知れない。 果たして、現在の日本の指導のやり方で、世界タイトルを取れる棋士がこれから現れるのだろうか。


友の認知症(2017/12/06)

 私の大学時代からの友人A君がアルツハイマーと診断されたのは、ちょうど半年前の春であった。A君は大学教授であったので、そうした病気とは無縁だと思っていたがそうではなかった。65歳ということから若年性アルツハイマーと診断された。2年ほど前から友人たちはA君の異変を感じていた。約束の場所に来ないし、それもたった数時間前に約束したそのことを覚えていなかったからである。
 そのうち大学側も、授業をたびたびパスするとか、講義で同じことをなん度も繰り返すなどの事態が発生した。精密検査の結果、上で述べたような診断になった。診断の結果が本人に告げられたとき、彼は動揺し相当な抵抗を示した。これは大学側のある勢力か、一部の出来の悪い学生が仕組んだ罠に違いないというのである。研究や講義で生きている人間が、その職業的な術を突然、根こそぎもがれるわけだから、当然の反応だったかも知れない。その後、大学の後期の授業から病欠扱いとなり、休職となった。それからは、症状が驚くほど進行してしまった。
 この病気は中核症状とよばれる認知機能の低下とともに、BSDP(行動.心理症状)と略される周辺症状が現れることがあり、これが厄介である。簡単に言えばその本人の性格、とくに感情的な面が露わになり、抑制が効かなくなるのである。いちばん親しいはずの肉親や介護者に対し、暴言や暴力をふるうこともある。私の92歳で亡くなった母も、晩年は認知症になったが、大変穏やかなもので、わたしを中学生の子どもとして扱うので、かえって家族の笑いを誘ったりした。
 しかし、認知症の周辺症状の現れ方はまさに千差万別で、財布や通帳を盗んだといって騒いだりするのはよくあることのようで、A君もそうした家庭内トラブルをたびたび引き起こすようになった。患者が手を付けられなくなり救急車を呼ぼうとしても、こうした場合、救急車は対応せず警察が対応することになる。警察に連絡することはやはりためらわれ、家族としてはどうしようもなく追い詰められてしまう。また、三度の食事を摂っても、食べたことを忘れ騒ぎだす。そのうち全てが億劫になって運動不足になり、超・肥満や糖尿病を併発するケースも多いという。若年性アルツハイマーの場合、当人は働き盛りだし、 子供の教育費や家のローンなども残っている場合も多く、家計に与える打撃も大きい。
 このように、アルツハイマーは、家族だけでなく職場や地域を巻き込む、まさに社会的な病気である。今後も我が国のさらなる高齢化の進展とともに、確実に増加の一途をたどる病であることは確実である。手前味噌になるが、先日11月24日。未来へのメッセージ舎主催の講演会が開催された。タイトルは「あなたは認知症を選びますか、ガンを選びますか」、講師は武田雅俊大阪大学医学部名誉教授で、認知症および老年学の世界的権威である。氏によるとアルツハイマーに対する根本的な治療薬はいまだ開発されていないという。 結局はその症状を和らげるクスリと介護関連の療法が進んでいるということだ。また、予防についても食事内容や禁煙など、ガンの予防とさほど変わらないことが挙げられた。詳しくはホームページの講演会をご覧ください。)
 現在は根本的な治療方法がないことから、個人としてはアルツハイマーにならないための生活習慣を築くことや、家族としては日頃から家族全員の健康に留意し、あらためて信頼関係を築いておく必要があろう。また、発症した場合の地域や社会の相互扶助やサポート体制を整備しておくことが必要な病であることは間違いない。2025年には日本人の3人に一人が65歳歳以上になるという。近い将来、多くの日本人が認知症あるいはその予備軍となり、町中を徘徊するという、とても笑えない世界が来るかも知れない。


ゴミのなかの私(2017/3/29)

 私の1日は家のゴミ出しとともに始まる。サラリーマンをリタイア後、これが私の日課となった。現在は全国どこの市町村もそうだが、各自治体から各家庭に細かなゴミ出しカレンダーが配られ、我々はそれに従って分別し、市や町の委託業者が回収に来る。海外のシステムはよくは知らないが、ゴミ出しの細かなルールを律儀に守っている国民は日本人くらいらしい。
 毎日ゴミを出しをして気づくことは、我が家族4人分のゴミ、特に、「容器・ プラスチックゴミ」の量の多さである。おまけにやたらかさばるのでその存在感も大きい。70リットルの透明なゴミ袋のなかに、一週間に一袋、あるいはそれ以上出している。ペットボトルは別に分けるので、それまで加えるとなんでこんなにプラスチックに囲まれた生活をしているのかと今さらながら驚く。うっかりゴミ出しの日を間違えると、我が家はゴミ屋敷寸前となる。
 例えば「おせんべい」でいうと、全体を包むプラスチックの袋があり、その中に、さらに一枚一枚、丁寧に包まれている。こうすれば確かに清潔だし湿気ることもない。しかし、体積的には中身と同等かそれ以上ある。おまけに最近は賞味期限切れになると
そのまま中身もすべてゴミとなる。
 私が小学生の頃の、佐賀の昭和の思い出だが、我が家の近くの佐賀大学前通りには、文房具屋、八百屋、床屋 自転車屋、お菓子屋、酒屋などの小売店がならんでいた。お使いで八百屋にミソなどを買いに行くと、八百屋のおんじさん(佐賀弁でおじさんのこと)が樽から注文の分量を量り、薄い木の皮に包んでくれた。おんじさんはツバをつけて薄い木の皮をめくっていたから、今から思えば衛生的とはとてもいえないが、当時はそんなことはどうでもよかった。せんべいや飴などのお菓子も量り売りだった。家々のゴミ箱も表に固定したかたちで置かれ、分別することもなく残飯も何もかもそのまま放り込んでいた。夏など悪臭が漂っていたが、ゴミの量は間違いなく少なかったと思う。
 現在は、たまに郷里に帰ると、当時の街並も、住んでいる人も跡形もなく消え、かつての佐大通は佐賀空港につながる四車線道路に拡張され、商店が並んでいた場所は大きな駐車場になっている。現在の住民は車でさらに郊外の大型ショッピングモールにでかけ、まとめ買いをする。ミソを買うにも、パックされた様々な種類から選んで購入する。その消費行動は東京郊外に住んでいる我が家となんら変わりはない。その結果、全国いたるところで大量のプラスチックゴミが発生するわけである。
 ゴミとは一体なんだろう。生物は有機物を食べて自らの栄養にし、不要なものを排泄するが、それらをゴミとは呼ばない。排泄物、ありていに言えばウンコである。日本も江戸時代頃までは、(いやその後も、)我々の排泄物も肥料にしていたから、紙クズのようなクズはあってもゴミはほとんど出なかっただろう。文明というものが目方で測れるなら、ゴミの重さではかれるかも知れない。
 話はアッチコッチ飛ぶが、小児医学の権威の小林登先生に、なぜ近年、子どものアレルギーが増えたのかと聞いたことがある。先生曰く「それは子どもの環境を清潔にし過ぎたからだよ」という答えが返ってきて妙に納得した。私のガキの頃に比べると明らかに日本は清潔になり、チフスやコレラなどの伝染病などもほとんど姿を消した。その代わり、日本人はほぼ無菌状態に置かれ、生物としての抵抗力、免疫力も落ちているのではなかろうか。日本人が海外に旅行や仕事で出かけ、様々な病気をもらって帰ってくる話もよくきく。
 人類史研究よると、アメリカやオーストラリアの先住民は、ヨーロッパ人や彼らの家畜が持ち込んだ病原菌が元で発症し、人口が激減したという。ヨーロッパ人たちは家畜との生活や、繰り返し起こる伝染病の歴史なかで免疫力があったという説だ。(「銃・病原菌・鉄」(ジャレッド・ダイヤモンド著) そのうち日本人も、津波や大地震ではなく、自身の抵抗力が衰え、得体の知れない病原菌で絶滅するのではなかろうか。などと考えながら、今朝も「容器・プラスチックゴミ」を2袋、表に出したのであった。


グアムでの結婚式(2017/1/30)

・なんでグアムなの
次男が昨年師走の17日、南太平洋の島、グアムのホテルで結婚式を挙げた。今や海外での結婚式は珍しくはないが、 始めその企てを次男から聞いた時は、なんでわざわざ海外で式を挙げるのかと思ったのだが、次男はどんどん準備を進め最後はこちらが折れるような感じでグアムでの結婚式とあいなった。
実は2人はすでに1年まえに婚姻届を出し、賃貸マンションで暮らしている。我々親の感覚からすれば順序が逆だと思うのだが、最近は先に婚姻届を出し、しばらく様子を見て結婚式を挙げるのがふつうだという。現代版のドライな「足入れ婚」とでもいうべきだろうか。まあ、我々の若い頃もそのハシリのような「同棲時代」という劇画が流行ったりして、特に驚くべきことではないが、
これが今のふつうの結婚形態といわれると時代も変わったと思う。グアムでの結婚式は、海外挙式が専門のブライダル業者がいて、3泊4日くらいのパッケージツアーが組まれている。また、参列者もごく限られた親族だけだし、式の衣装もアロハシャツの様なものが用意されているので、モーニングなどの礼服の気遣いはない。当人たちは新婚旅行も兼ねるというので浮かれているようだが、私は、グアムでの結婚式というと、どうしても心にひっかかるものがあった。それはこの地が太平洋戦争の激戦地であったことである。
実際の戦争体験は私の父親たちの世代であるが、1972年には横井庄一さんがジャングルから出てきて日本中が大騒ぎになった。「恥ずかしながら帰って参りました」という彼の言葉を今も記憶している。学徒出陣の体験者であった亡父からも、友人の幾人かが南太平洋で散華したことを聞かされていたし、当時の記録写真などでも、砂浜に斃れた多くの日本兵や、米軍の火炎放射器などで虫ケラのように殺されていく記録映画を見たりしている。息子らは、そうした歴史的事実を教科書などで断片的に知っていたとしても、何のこだわりもないのだろう。グアム観光ガイドブックなども数冊目を通したが、ほとんど戦争について触れたものはない。観光ガイドブックに、敢えて島の暗い歴史を描くこともないのだろうが、私には忘れることはできない歴史に思えた。

・アメリカ領グアム
グアムは、成田空港から約3時間、日本との時差も1時間ほど早いだけである。新幹線でいえば東京、岡山間といったところか。成田空港を11時頃に出発して午後の2時にはグアム国際空港に到着した。基地があるせいか、入国審査は2時間以上もかかり、両手の指紋から顔写真まで撮られた。成田ではセーターやジャケット、マフラーを着込んでいたが、グアムではTシャツだから何とも不思議な感覚である。
ホテルに着くと、当人たちは明日の式の予行演習ということで別行動となった。そこで妻と、一緒にきた長男夫婦と、夕方タモン地区という繁華街までバスで出かけた。街にはブランドショップやみやげ物屋が並び、赤いシャトルバスが夜遅くまで巡回している。長男がネットでグアムのレストラン情報を調べ土地の料理を食べに行くことにした。
なるほど評判通り肉料理が安くて美味かった。現地の人はがっしりとした肥満タイプが多いのは、毎日、大量の美味い肉料理を食べているせいなのだろうか。

・岬の結婚式
翌朝、11時からいよいよ結婚式である。Sホテルはタモン湾の西側に位置し、浜辺からは潮騒の音が絶えず聞こえ、白いサンゴ礁の砂浜と透明でブルーな海と地平線に重なる雲が美しい。風は強いが暑くもなく気持ちのいい天気だ。結婚式場はSホテル敷地内の岬に、ガラス張りのドームが建てられており、教会というより植物園を思わせる。参列者は相手のご家族3名と、われわれ家族4名、当人たちも合わせて9名という、ごくこじんまりとした式である。
式はキリスト教形式で行われた。二人はクリスチャンでもないのだが、この日だけは当人たちもわれわれもにわか信者である。今日の多くの日本人は、生まれた時はお宮参り、結婚式は神前かキリスト教式、葬式は仏式という。こんないい加減な宗教的生活は、世界広しといえど日本人だけではなかろうか。奇妙な無宗教的国民と思われても仕方がないだろう。敢えてその利点をいうなら、宗教戦争は起こりようがないということだ。多数の日本人にとっては、キリスト教でもイスラム教でも、その神様とは、それぞれ神様のひとり(一神教的宗教にとってはまさに神への冒涜であろうが)なのである。
私個人の考えとしては、人々の「祈り」や「願い」、そしてそこになにか霊的な存在に対して敬い畏れる気持ちがあれば、それを信仰、すくなくともそこに宗教的世界が存在するといってもいいのではないかと考える。キリスト教での結婚式に立ち会ったことははじめてではないが、白人の牧師さんが語る誓いの言葉も、神主さんの祝詞と思えば、私には違和感はない。
岬に突き出た教会の祭壇に飾られた十字架は、空中に浮かんでいるようで、二人はまさに天にも昇るような気持ちではなかったろうか。花嫁さんの純白のドレス姿はことのほか美しく、グアムの遥かな海にただようように思われrた。花嫁さんのお母さまはしきりに涙しておられた。教会での式の後は、場所を変えて小さな披露宴があり、家族間の交歓があり、夕方はグアムの現地人(チョモロ人)による民族ダンスショーなど、出し物満載でその夜は十二分に楽しめた。
翌日2泊目は自由行動日で、われわれ夫婦は長男夫妻とイルカウオッチングに出かけた。動物好きの妻はことのほか興奮気味に喜んでいた。グアム観光にはこのほかにも海の観光やレジャーに関するプログラムがいくつもあり、日本人だけでなく、最近では中国人、韓国人観光客も増えているという。

・戦没者慰霊碑にて
そして4日目は帰国のときで、飛行機の出発時刻は午後4時頃の予定だった。私は前々からグアムの南太平洋戦没者慰霊公苑にはぜひ訪れたいとおもっていた。そのことを次男夫婦に告げると、自分たちもついて行きたいというので一緒に出かけることにした。
妻はこれまでの緊張のためか、ホテルに残り、次男夫婦と3人でレンタカーで9時ごろにホテルを出発した。息子の運転で、グーグルマップを頼りに、 グアムの北部の丘にある慰霊公苑へと向かった。途中、小さな標識しかなく、息子は何度か道を間違えた。
約40分ほどで到着した慰霊公苑は、われわれのほかは誰もいなかった。敷地内の片隅にはネコが死んでおりハエがたかっていた。小さな平屋の慰霊堂はドアが開いたままで、中心には仏像が安置されている。その周りには戦没者の遺品や写真などが無造作に陳列してあった。日本各地の遺族会の寄せ書きやお札、千羽鶴のようなものも祭壇に飾られていたが、ホコリぽく色あせていた。おそらく訪れる人も稀ではないかと思われた。タモン地区の、日本人観光客で溢れる情景とはあまりにも対照的である。公苑内の慰霊塔は、高さ5メートルほどのちょうど手を合わせたような白亜のモニュメントで、この碑の前でわれわれはしばらく黙祷をした。塔の周囲にも様々な慰霊碑があったが、角が欠けたり錆びついたりで風化が進んでいた。この場所は、米軍に追い詰められた日本軍の最後の陣地跡であり、日本軍守備隊司令官の小畑大尉が自決した場所である。
1944年7月7日にサイパン島の守備隊4万3千人が玉砕し、1万2千人ともいわれる民間人も集団自決などで斃れた。その後、その南隣りにあるグアム島の日本軍守備隊2万人も玉砕し、アメリカ軍は島を占領した。この慰霊塔が建立された年は1970年、我が国では大阪万博が開催されたまさに日本の高度成長期である。
しかし、訪れる人もまばらなこの慰霊公苑は、この先どうなるのだろうか。息子が今の私くらいの年齢になった頃は、この白い塔だけが密林の中で発見されるのかも知れない。3人で慰霊塔に手を合わせ黙祷を済ませると、息子夫婦は、そこからあまり遠くない観光名所である恋人岬に行きたいというのでクルマで向かうことにした。

・恋人岬で見たまぼろし
恋人岬はタモン湾の東の端の標高80メートルほどの岬の断崖にあり、その展望台からは弓なりに大きくひろがるタモン湾の砂浜と、南太平洋の紺碧の海と空が一望のもとに見渡せる。その名前に惹かれてか、日本人だけでなく、中国人、韓国人など多くの若いカップルで溢れかえっていた。
みやげ物屋で記念グッズとして南京錠が売られていた。それに二人の名前を油性ペンで書いて金網に施錠し、そのカギを断崖から海に捨てるのだという。もしもその後、二人が別れることがあれば、海底に沈むカギは、心に沈むトゲになるだろうに、などと余計なことを考えたりした。
私は強風にさらされながら、岬の展望台からタモン湾をしばらく眺めていた。太陽は輝き、海からの風と、波のうねる音が周りの喧騒を打ち消してしまう。そのうちに、地平線から何百という米軍の上陸用舟艇が、タモン湾に向けて押し寄せて来る幻覚を見た気がした。
それは約70年前、まさにこの場所で、おそらくいまの息子くらいの一人の日本兵が眼下に見た、現実の光景に違いなかった。彼は震える手で銃を握りしめながら、その時何を思っただろうか。恋人を日本に残してきたのだろうか。もしも、その彼が今、タイムスリップして、この恋人岬に立ったとしたら、何を思うのだろうか。果たして南京錠をかけてカギを断崖に捨てる恋人たちを理解できるだろうか。そう考えると、この世界そのものが大きな幻覚、あたかも巨大な3D映画であり、私たちはそこに張り付いた一コマのフィルムのような気がしてならなかった。それから私たちはSホテルに戻り、午後4時頃のジェット機でグアム空港を出発し、7時頃には成田に到着した。

・戦争を埋立てた楽園、そして我ら日本人
次男のグアムでの結婚式は、おそらく当人たちもにとっても、また我々家族にとっても、幸福な思い出深い3泊4日間であった。ただ私は、その後も、南海の楽園として、毎年約120万人もの日本人が訪れるグアム島と、約70年ほど前には2万人以上のも将兵や民間人が斃れ、また多くのアメリカ兵も戦死した、あまりも苛酷な島の歴史とのギャップに、心が穏やかにはなれなかった。
風化する慰霊公苑のことも心から消えなかった。私たちはこんなにも過去を綺麗さっぱり、忘却の彼方に押し流していいものだろうか。グアムについての書籍を調べているうちに、岩波新書で「グアム島と日本人」副題が(戦争を埋立てた楽園)というまさに私のこだわりに応えてくれるそうな本が見つかった。作者は山口誠氏で2007年に刊行された本である。この本によると、グアム島は太平洋戦争時、日本軍が占領し、大宮島(おおみやじま)とよばれた。激戦ののち、ふたたびアメリカ領となり、南太平洋および東南アジアの軍事戦略のまさに要となり、ベトナム戦争では北ベトナム爆撃の拠点となった。その戦略的な重要性は今も変わらない。
島が軍事要塞化する一方で、1960年代から当時のグアムの知事らの努力で、ハワイをモデルとした観光化とリゾート開発がすすみ、1970年代には日本から毎年約20万人の観光客と、そのうち新婚旅行で約2万人以上のカップルが訪れているのである。1970年代といえば 我ら団塊の世代が婚期を迎えたころで、そういえば、当時の新婚旅行地が、熱海や宮崎などの国内から、海外の太平洋の島々に移り変わったことを思い出した。日本の高度成長期と、グアムなどの南太平洋の島々の利害がつながり、日本人の地獄であった島が、戦後20年ほどで「南海の楽園」となったのである。となりのサイパン島も同じような経緯をたどっている。
また、この本の中で横井庄一さんのことが書かれていて大変興味深かった。横井さんがジャングルからでてきて日本中が驚いたのは1972年1月24日である。驚くべきことに彼は1973年3月にはそのグアム島を自身の新婚旅行として訪れ、地元の大歓迎を受けたのである 普通に考えれば、苛酷な体験をし、思い出したくもない場所だと思えるのだが、再び、それも新婚旅行で訪れたのである。
島民のほうも、自分たちを戦争に巻き込んだ日本人に対して、悪感情を持持つのが普通と思うのだが、多くの島民は歓迎したという。もちろんその背景には、当時のマスメディアの過剰演出や日本の高度成長及びサービス産業の隆盛と、グアムの観光化という経済的利害が一致したと思われるのだが、それだけでは説明できない事件である。今にして思うと、横井さんのエピソードは単に一個人の特異な出来事というより、日本そして日本人全体を象徴した物語のように思える。

・台風とともに過去を吹き飛ばす日本人の「忘却力」
「グアムと日本人」の副題は「戦争を埋立てた楽園」であるが。わたしには過去を「埋立てた」というより「過去を風とともに吹き飛ばした楽園」と言った方がより適切な表現のような気がする。つまり、日本も含め太平洋に面する島国の人々は、毎年、否応なく大きな台風に見舞われる。そのパワーは積み上げた歴史も人々の営みも、オールクリアにしてしまうのである。おそらくタモン湾にさらされた日本兵の遺体も、台風によって、多くの記憶とともに太平洋の沖合に消えていったのではなかろうか。
戦後の日本本土でも、それまでは鬼畜米英と叫んでいた国民が、米国占領時はマッカーサー様となり、東京大空襲を指揮した指揮官に 勲章まで贈っている。そしてその後、日本はアメリカ文化にまみれ、今日に至っている。このような、いわば「忘却力」ともいうべきわれわれの日本人の心性を、台風や洪水、津波などの繰り返される自然災害によって刷り込まれた文化的DNAと理解すれば、自分なりに説明がついた気になる。おそらくこれはグアム島の人々も含め、台風などの災害に絶えず晒される太平洋の島々の人々に少なからず共通する心性ではないだろうか。
現在、隣国の韓国とは慰安婦少女像問題で揺れている。多くの日本人はそうした過去を何度も蒸し返す韓国、および韓国民に対し、理解し難い感情を抱いているだろう。また約一千年前の十字軍を持ち出し、アメリカや西ヨーロッパの国々に敵意をむき出しにするイスラム過激派などもなかなか理解できない。
しかし彼らからすれば、この日本人の「忘却力」も、安倍首相が繰り返し述べる「未来志向」も、おそらく理解ができないのではなかろうか。大変大雑把な「仮説」であるが、さらに考察したいテーマである。
息子の海外での結婚式は、わたしの心の中では「日本人とは何か」、から国際問題まで展開するテーマに発展してしまった感がある。


電車の風景(その2)(2016/11/16)

透明なまゆ玉の中のワタシ

都会の電車のなかには日本社会の縮図がある。私が佐賀の高校を卒業し、東京へ出たてのことである。山手線に乗り遅れ、クソッ乗り遅れたと思ったらほどなく次の電車が来て驚いてしまった。佐賀では電車(当時はジーゼルカー)の待ち時間は約30分以上だった。私の東京の電車との関わりはそこから始まる。
その頃の電車のなかは(ちょうど1970年のころだが、)乗客の7,8割は若者だらけだった。現在は、時間帯にもよるが、高齢者で溢れている。昔の高齢者と違うのは、ジーパンや柄物のシャツやTシャツをきたりしている。つまり、70年代の若者がそのまま浦島太郎になってしまった感じである。かくいう私も、はたから見れば同類だろう。
私は仕事の関係上、今も朝の通勤ラッシュ時の電車に乗ることが多い。そしてその電車の状況をそれとなく観察している。その様子は、この数年の間にまったく様変わりしていることに気づく。その様変わりとは、ケータイ電話が普及してから始まった傾向だが、現在はたとえば7人掛けの座席に並んですわっている乗客のうち6名はスマホを見ている。あとの1人は本を読んでいるか寝ている。全体として電車の乗客の約8割がスマホをいじっている。以前は満員電車のなかで新聞を細かく折りたたんで読んでいる乗客をよくみかけたが、今はまれである。
それではスマホで彼らは何をしているかチラチラのぞいてみると、大半はゲームをしている。これは年齢とはあまり関係ない。実は、かく言う私も最近は電車のなかでスマホの9路盤の囲碁ゲームをしている。ルールは普通の囲碁とまったく変わらない。(正式な囲碁の盤面は19路盤である。)盤面がちいさいため勝負は3分くらいでかたがつく。フリーソフトなので使用料金はゼロ円。また、このアプリが適当にレベルに合った対戦相手を選んでくれるので未知の誰かと囲碁をするのも結構楽しい。私は今は2級だが上段者はやはり強い。というようなわけで、通勤が退屈しなくなった。だから電車のなかでゲームをしている乗客もきっとそれなりに楽しんでいると思う。
つまり電車でのスマホをいじる利点とは、窮屈かつ不快なラッシュ時でも自分だけの世界に浸ることができることだ。もちろんゲームでなくてもネットやラインなども楽しめる。この間は、まさに傍に人無きが如し、傍若無人状態である。中には今立っている場所が、あたかも自分の敷地のように頑として動こうとしない者もいる。
駅の構内でスマホを見ながら歩いている人間はまったく前を見ていない。誰かが避けてくれるものと思っている。 駅では「スマホ歩きはやめてください」とさかんにアナウンスしている、「スマホ歩き」なる造語も定着している。ゲームの大事なところでやめるわけにいかない。その気持ちはよくわかる。スマホに熱中している彼、彼女の周りには透明な繭玉(コクーン)のような殻に覆われており、彼らに周りの人々はいないのである。
数年まえだが、山手線の電車のなかで、両耳にイヤホンをして、その上にアイマスクをし、腕組みして堅くうずくまって座っている異様な乗客を見かけたことがある。これなどは外部との関係を遮断し、自分だけの世界に浸っているのだ。その姿を他人がどのように思うと、何が起ころうとまったく関係ない。今日の「電車スマホ」も(これはいま考えた造語だが)その延長線上にある。
いまやスマホやケータイは人々、とくに都会の生活者にとっては切り離せないアイテムだ。私もスマホがないと、あたかもパンツを履いていない気分で居心地が悪いのだ。最近は小学生の頃から持ち歩き、寝る時も肌に身につけないと眠れない子供も多いという。我が家の娘らもそうだ。スマホの普及は、人間のあり方を、人と人の関係性を、社会の有り様をまったく変えてしまった。



電車の風景(その1)(2016/11/03)

エスカレーターの決闘事件

都会に住むひとびと、特にサラリーマンにとって電車との関わりは住む家と同じく必然である。それも遠距離からの通勤となると平均、往復2時間は通勤電車の中に居ることになり、仮りに50年間通勤すると2年以上は電車の中で暮らすという勘定になる。
10月某日午後10時ごろ、私は友人たちとの四谷での飲み会のあと、ほろ酔い気分でJR新宿の中央線から京王線に乗り換える南口側にあるエスカレーターに足をかけた。その階段の距離は約15メートルで、時間にすれば20秒ほどで上階に到達する。そのほんの数秒後のことだった。突然わたしの右側にいた乗客らが取っ組み合いの喧嘩を始めたのである。一人は頭のハゲあがったゴルフ焼けしたような60歳前後と思われるサラリーマン風。耳には白いイアフォンをして片手にスマホを持っていた。もう一方は50歳前後の、黒いコールテンのジャケットを着た頑丈そうな男で、その二人が、なんだ、お前こそなんだと言って互いのネクタイを掴み合ってている。エスカレーターの右サイドにいるわれわれ乗客たちにもとばっちりが及んできた。わたしはとっさに自分の傍にいるコールテンの男性の腕を掴み「やめなさい、これ以上やると犯罪ですよ」と叫んだ。他の男性たちも「やめろ」とか「こんなところで迷惑だろ」とくちぐちに言いながらその二人を抑えようとした。エスカレーターが上がったところで周りの制止が効いたのか、二人は急に冷静になって喧嘩は収まった。イアフォンをぶら下げた男は乱れたスーツのまま肩で息をしながら人ごみの中に消えた。若い方は、制止した乗客の一人から「こんな場所でのケンカは皆が迷惑ですよ」と言われ、素直にスイマセンと頭を下げてこれも人ごみのの中に消えた。この間、まさに 10秒前後のハプニングである。周りは何事もなかった様にいつもの新宿駅の雑踏に戻っていた。わたし自身も突然の出来事でもあったのでしばらくは興奮していた。突然のケンカだが、収まるのもあっという間であった。こうした駅での乗客同士のケンカやトラブルは、特に東京ではよく見かける光景である。殴り合いの場面も目撃したこともある。ホームでのトラブルがもとで線路に落ち命を落とした例にも遭遇した。
わたし自身、もう30年以上前の話だがこうしたトラブルに巻き込まれそうになった。それは西武池袋線での朝の超満員の通勤電車の中でのことだった。ドアの近くで女の人の悲鳴が聞こえる。若い男がその女性の足を執拗に蹴っているのである。その鈍い音も、女の人の悲鳴も聞こえるのだが、周りの乗客は見て見ぬ振りで皆がだまっている。わたしはそこから約2メートルほど離れていたが、たまりかねて「やめなさいよ。暴力はよせよ」と叫んだ。そうしたら今度はその男は、なんだ、てめえ降りろなどと言いながら、今度はわたしの方に向かってきた。ただし超満員の急行電車なので身動きが取れない。そうこうするうちに電車が終点の池袋駅に着いてしまった。こちらも今さら逃げるわけにもいかず、その男と電車を降りるはめになり、またもやつかみ合いになりそうなその瞬間、ひとりの中年の男性がわれわれの間に割って入り、歩きながら「もうつまらないからよしなさい」と言ったのである。その落ち着いた口調にくだんの男も興奮が冷めたようで、その場を離れていった。きっかけになった女性はいつの間にか消えていた。わたしも歩きながら礼を述べると「行きがかりのことですから」とわたしの顔を見るでもなくいいながら彼も通勤の人の渦の中に紛れていった。わたしにはその「行きがかりのこと」という言葉がいまもわすれられない。
人生のなかでこうした「行きがかりのこと」で大変な事件に巻き込まれること、あるいは自分自身がその当事者になることがよくある。特に東京のような大都会に暮らす人間たちは、皆がなんらかのストレスを抱え、また闇の部分を抱いて殺気だっている。普段はそれらは表には出ないが、些細なことで溜まった闇の部分が吹き出すのである。
エスカレーターのケンカも、想像するにイヤフォンでスマホでも見ていた男が、後ろからきた若い男に早く歩けと押されたのであろう。些細なことがエスカレーターの上でエスカレートした(!)のであろう。彼らも家ではよきパパ、よき亭主だろう。些細なケンカを止めてくれた見知らぬ他人に今は感謝しているはずだ。


凡事徹底(ぼんじてってい) その2(2016/10/21)

鍵山秀三郎さんのこと
こうした凡事のなかの凡事もいえる「掃除」に、経営者として新しい意味を与えたのが、冒頭にご紹介した株式会社イエローハットの会長鍵山秀三郎さんである。とりわけ、鍵山氏のトイレ掃除運動(日本を美しくする会)はもう半世紀以上続いており知る人ぞ知る社会運動にもなっている。私も実は20年以上も前に氏の掃除哲学の講演をきいたことがある。そのときは素手で男子便器をあらうとか、そのフタをピカピカに磨いて、掃除の参加者みんなでそれをジョッキにしてビールで乾杯するとかの話が印象に残り、何もそこまでと思った。もちろんこれは「日本を美しくする会」の象徴的なエピソードでしょっちゅう乾杯しているわけではないことはいうまでもない。第一、毎日、トイレ掃除を生業としている人にとってはとてもできないだろうし、当時はいわば社長さんの旦那芸的な発想と思ったものである。
しかし、最近あらためて氏の著書である「日々これ掃除」を読むと、ここに至る道が、氏の生い立ち、両親の教え、事業体験から生まれた強い職業倫理であることが分かる。一番汚い、面倒な凡事と思われたところに光りを当て、その意味と価値を逆転させたところは極めて宗教的と言える。
「美しい場所にいれば心も美しくなる」「トイレを美しくすれば心も美しくなる」という言葉は数年前に流行った「トイレの神様」の歌詞と同じである。(鍵山さんの影響か?)さらにいろいろ調べて見ると禅宗の修行にも掃除、とりわけ便所掃除があって便器を舐めるまで徹底して綺麗にするということもあるようだ。(禅宗の僧侶であり作家の玄侑宗久氏のエッセイによる)
ヨーロッパの街を旅行すると、道路掃除やトイレ掃除などは明らかに移民と思われるアジア系やアフリカ系の人が従事している。いわゆる3K、きつい、危険、汚いと言われる仕事である。こうした職業の多くは低賃金であり固定化するので、民族的、あるいは宗教的な摩擦や差別意識あるいはルサンチマンを知らぬ間に生み出し、新たなヨーロッパ
の階級社会が現れてくる。一方で自由と平等、博愛の思想はヨーロッパで誕生したのだから、今のEUの難民の受け入れ問題に発展するように複雑な要素を産む。
鍵山さんが考え実践する、社長と社員がともに掃除をし、掃除そのものに意味を見出すという発想は、西洋的な、近代的な発想にはおそらくないだろう。
さて、「日本を美しくする会」のことだが、最近あまりマスコミにもあらわれないので、しりすぼみで解散したのかと思いきやグーグル検索してみたら日本どころか世界を美しくする動きに広がっているようだ。ホームページにはそのYou-Tube映像もあり、ぜひ御覧になっていただきたい。例えばハンガリーの小学生と日本のボランティアのメンバーが一緒になって学校を徹底的に掃除している姿には感動する。荒れた汚れた学校が見違えるような姿に変貌するのだ。日本では小学校、中学校での掃除は当たり前の習慣だが、世界的には稀でまさにクールなことのようだ。掃除のやり方も、それに対する考え方も立派な日本の誇るべき文化として着実に広がっていることを感じる。鍵山さんの「凡事徹底」もそのうちに「もったいない」と同じ様に世界の標語となるだろう。


凡事徹底(ぼんじてってい) その1(2016/09/17)

「凡事徹底(ぼんじてってい)」。最近、自宅の近所に大型のドラッグストアが建つことになり、その建設現場の横断幕に掲げられたスローガンである。工事現場だけでなくこの標語は最近よく見かけることが多くなった。 意味を調べてみると、まさに文字の通りで、凡とは凡人のボンで、およそ普段のあたりまえのこと、その凡事を手抜きせずに徹底的に実行せよ、精神論的には、日常的な些細な作業でも気を入れてシッカリやれということだろう。この四字熟語は一見、禅の言葉のようだが、そうではなく、普及させた人物は、株式会社イエローハットの会長の鍵山秀三郎という方である。このかたについてはあとで述べるとする。
さて、なぜ工事現場に凡事徹底が掲げてあるのかだが、現場などでは繰り返し作業が多いから気をぬくと大怪我にもつながる。また慣れてくると、手抜きもでてくる。手抜きはそのうち偽装工事にもつながっていく。最近の話題では豊洲市場の土壌問題だが、あれも凡事徹底がなかったせいだろう。都庁のお偉方がやったのだから呆れる。
電車やバスの運転なども、毎日の繰り返し作業が多い。そうなるとつい気が緩んでそれが大事故になる。そのため絶えず声を出し、指差し確認を行っている。こうした仕事は、誰にでもできそうな感じがするので社会的にはとかく軽い仕事と見られがちである。それよりもクリエイティブな、人目を惹くような仕事が、カッコイイ仕事と思われている。また凡事といわれる仕事は、頭脳労働というより体を動かし汗をかきかきやる仕事に多い。
私自身、自分の仕事の歴史を振り返ると、こうした凡事を避けて来たような気がする。新人の頃は雑巾掛けのようなことをやらされて、だんだんそれらを卒業し、デスクに座ってアタマを使って管理的な仕事をするというキャリアアップのイメージである。しかし、よく考えてみれば、あらゆる仕事の9割方は凡事である。今日のように仕事も複雑で多様になると何を凡事とするかは定義が難しいが、とりあえず繰り返される日常的な仕事と定義すればよいだろう。
このような時代に、あらためて「凡事徹底」なるスローガンが多くの職場で語られるようになってきた理由は、実は、凡事をきちんと出来なくなったからではあるまいか。毎日繰り返す、定型的な仕事がちゃんとできない。いい加減に済ましてしまうなどなど。こうした原因は、一般に凡事を嫌う風潮もあるが、今の学校教育にも問題があると思う。個性尊重や、創造性の追求という教育理念から、繰り返しやるようなことは将来ロボットやコンピューターに任せればいいという発想だ。実際に、基礎基本的な繰り返し学習することをは「ハミガキ学習」(ハミガキと同じような単なる繰り返し学習)と揶揄されて、先生にも子どもたちにも人気がなかった。凡事の中の凡事である掃除も、最近はできない若者も増えているという。学校できちんとした掃除の仕方など教わらなかったことも原因だろうし、多くの教師も掃除は指導要領にもないので特に「掃除のやりかた」などは教えない。
凡事は家のなかにもある。掃除、洗濯、掃除、家の中の整理整頓等がその代表だろう。実のところ、私は子どもの頃からこの家中の凡事が大の苦手で逃げ回っていた。同じことを何度もやる掃除や片ずけなどが退屈で億劫だった。現在に至るまでこの性分はあまりかわらない。言い訳としては、そんなことをやるヒマがあるならもっと目新しいことをやったほうが退屈しないしクリエイティブであるという考えである。よって私の家事に関わる歴史も、凡事は女房任せが多かった。凡事が上手く回らないと家庭も家屋も崩壊する。ゴミ屋敷などがそのいい例だろう。サラリーマンを卒業して、自宅にいることも多くなると、家庭の凡事をもっぱら一人で抱えてきた女房に手を合わせ懺悔したい気持ちになり、季節外れの大掃除をやらかしたりしている。


はじめての座禅体験談(2016/07/31)

ある方の紹介で座禅会に行きました。座禅に似た、例えばヨガの瞑想などの経験はありますが、禅道場で座禅を組むのは初めての体験です。我が家の檀家寺は禅宗(臨済宗)であり、座禅の経験もあってよさそうなものですが、禅宗といっても座禅を檀家の信徒にやらせたり普及することはあまりないようです。私の亡くなった父も、毎日、仏壇へのお勤めを欠かしたことはありませんでしたが、座禅を組んでいる姿は見たことがありませんでした。もっともあまりひとに見せるものではないとは思いますが。
この禅道場は、「釈迦牟尼会」といい100年の歴史のある、座禅を一般へ普及することを目指している在家の団体です。宗教宗派を問いません。私を紹介してくれた方は浄土真宗のお坊さんでした。参加者はみなさん現役のサラリーマンでした。私が体験したのは入門コースで、臨済宗のひと通りの作法に従って、休憩もふくめて約2時間座りました。
座禅は膝とお尻の3点で身体を安定させ、背骨を天に向けてまっすぐ伸ばし、目線は1メートルくらい先を見るので自然と半眼になります。足は結跏趺坐という正式な組み方がありますが、これは私にとってはまさにアクロバット的でよくもまあお釈迦様様やダルマさんはこんな格好で長く座れたなと思います。
座禅は呼吸がだいじで、初心者は、呼吸に合わせてゆっくり数をかぞえます。ヒトーツ、フターツ、ミーツ、という具合に。入門コースということで、時々休憩がはいります。あまりやりすぎるとエコノミーシート症候群になるのではとふと思いましたが、そんな話は聞いたことがないので大丈夫でしょう。頭と膝とお尻でちょうど三角錐のような安定したかたちになるので、このかたちはシンボリックな宗教的な意味があると思います。自然に呼吸をしながらヘソ下丹田に意識を鎮めるようにすると、初めての体験でしたが深いリラックスした状態になるような気がします。現在は情報が溢れかえる時代で、私自身、スマホなしでは生きていけないようななさけない生活をしていますが、心身の中に混線しているあらゆる情報をオールクリアした気になったのが私の初めての座禅体験でした。出来る限り続けていこうと決心した次第です。


日本人のヒストリー(2016/07/13)

昨今の殺人事件など重大事件の判決では、本人の自白や状況証拠などより、DNA鑑定の方が、信用性が高いとみなされ、その結果、裁判が逆転無罪となるケースも稀なことではなくなりました。それだけ遺伝子解析の技術が進み、その信頼度も極めて高くなったということでしょう。
我が日本や日本人の歴史解読においても、古事記、日本書紀などの文献研究の重要性はいうまでもありませんが、これら文献を仮に「自白」だとすると、古代人のDNA、ゲノム鑑定により、歴史の解釈がひっくり返る可能性も十分にあるわけです。この7月8日に東京・学士会館で開催された講演会「古代ゲノムで解析する日本人の成立」の内容は、これまで石器や骨、遺構などの発掘で語られてきた古代日本人の歴史とその実態が、遺伝子解析により、あたかもレントゲンにかけて明らかにされていくような感覚でした。
講師の篠田謙一さん(国立科学博物館)のお話は、推理小説のような謎解きから始まりました。2014年に東京都文京区の小日向のマンション開発現場で、江戸時代中期ごろと思われる3体の人骨が発掘されました。さっそくミトコンドリアDNA分析を行なった結果、なんとその一体がイタリア、トスカーナ地方の人物であることが判明しました。史実と照らし合わせると、1710年頃に新井白石と面談したイタリア人宣教師ジォバンニ・バチスタ・シドッチであることが分かりました。つまり、DNA解析からその人骨の出自、それもどこの出身者であることまでピンポイントで突きとめたということになります。
そこでいよいよミトコンドリアDNA分析により、日本人のルーツを探る話になるわけですが、結論からいうと、それまでの日本人の成立に関して定説とされている「二重構造説」、すなわち縄文人を単一の集団とし、のちに日本列島に流入してきた弥生人との二重構造として捉えるこれまでの解釈に、疑問と修正を迫るという内容でした。
縄文時代を、日本列島において旧石器後の文明と定義すると、それは約1万5千年前ごろに始まります。弥生時代は約3千年前とされるので、縄文時代は約1万2千年もあったと考えられます。この長い間に、日本列島では、オホーツクルート、大陸ルート、台湾、沖縄ルートから人々が流入し、他の東アジアでは見られない、ミトコンドリアDNAの形(ハプログループ)が形作られたといいます。
ここからは私の勝手な解釈ですが、稲作文化をまだ知らない縄文人は、約1万年ものあいだ日本列島の豊かな森の中に暮らし、海辺や湖では魚介類を採取していました。そうしたおそらくは平和で豊かな生活は、深くDNAの中にある型(ハブログループ)を形成し、それらが海や山に対する自然信仰や神道につながったのではないでしょうか。日本で花開いたとされる「草木国土悉皆成仏」という、自然の中に仏性をみる思想も、縄文人の文化に深く繋がっているような気がします。ゲノム分析という最先端の科学の成果により、新たな歴史ロマンに思いを馳せる講演会でした。
(余談)
すでにミトコンドリアDNA解析は、一部商品化され、5万円ほどで個人の祖先のルーツもたどることができるといいます。こうなるとまさに究極のファミリーヒストリーということになるのでしょうか


「歳をとればとるほどカゲキに生きろ」福武さんのことばより(2016/06/17)

5月25日、未来へのメッセージ舎主催による福武總一郎さんの講演会が、東京は本郷にある東京大学情報学環・福武ホールにて開催されました。「瀬戸内国際芸術祭に寄せて」というテーマで、およそ130名の参加者も氏の現代アートにたいする特別な思いに熱心に耳を傾けていました。 実は、福武さんは、以前私が勤めていた会社の社長であり理事長でもあったので、文字通り公私ともにお世話になりましたが、現在そして未来においても、影響力のある方です。
では、それは何かというと、福武さんの、「歳をとればとるほど過激に生きろ」ということばにあります。過激というと、過激派組織イスラミックステートを思い浮かべますが、「過激さの普遍性」においては福武さんの方がよりカゲキだと思います。(よってカゲキと表現した方がいいでしょう)。
「60にして耳順う。70にして心の欲するところに従えども矩を超えず」という孔子の言葉は、今でも一般的な高齢者観であり、あるべき姿かもしれません。ところが福武さんは「70にして心の欲するところに従い、かつ、カゲキに生きろ」といっているのです。孔子は紀元前5世紀の人で、いまだにその言葉の力には驚きますが、今日、人生90あるいは100歳になろうとする時代において、これまでの高齢者観があてはまらない時代、言い換えればもはやそれではやっていけない時代にもなっているのではないでしょうか。
福武さんからカゲキに生きろといわれるまでもなく、少なくとも現在65歳以上のいわゆる「高齢者」は、実はカゲキに生きざるを得ないのです。これまでの高齢者の悠々自適を理想とする時代は、少なくともこの日本では終わろうとしています。もちろんそれが許される高齢者もまだまだ多いのですが、この状況はそう長くは 続かないでしょう。
チンパンジーやゴリラなどの類人猿の世界では、年とったサルはいてもおじいさんサルとか、おばあさんサルはいないといいます。ましてや悠々自適のサルは動物園にしかいません。つまりサルは生きている限り現役であり、サルが現役で無くなる時がサルの寿命でもあります。つまり、我々はサルの世界にまた戻ろうとしているのです。
しかし、それでも我々はサルではなくホモサピエンスとしての誇りがあります。そうであるとするならば、福武さんのいう「歳をとればとるほどカゲキに生きろ」という「カゲキ」の意味を、それぞれ自分なりに考えてみてはどうかと思うのであります。


福武總一郎さんのこと(2016/05/03)

 私の会社勤めのころのことですが、いつものように、朝の超満員の電車のつり革にぶら下がりながら、何気なく窓の外を見ると、遠く空高く、トンビが気流に乗って気持ちよさそうに飛んでいるのが見えました。あのトンビからすれば、こうして満員電車で毎日通勤している私たち人間の生活はどのように見えるだろうか、などとつらつら考えていました。子供の頃、アリたちの不思議な行列を飽きずに眺めてたことを思い出し、この地球上には、実はさまざまな生き物たちの重層的な世界があり、われわれ人間は、あたかも地球の主人のように振舞っているが、実は表層的なことしか知らず、かなり勘違いをしながら生きているのかも知れない、などと電車の揺れに任せながらぼんやり考えていました。
 悠然と大空を舞うトンビを見ているうちに、当時私が勤務していたベネッセの社長であった福武さんのハングライダーのことが思い出されました。もう25年以上も前のことですが、瀬戸内海に浮かぶ直島で開催された「福武祭」という、当時、毎年行なわれていた会社の文化祭・運動会(当時は牧歌的な会社でした)のオープニングのとき、モータ付パラグライダーで福武社長が空から舞い降りたときは社員全員、度肝をぬかれました。その後、 福武さんのパラグライダーはヘリコプターに代わり、たびたび瀬戸内海の島々の上空を回遊されていました。ただ、空を飛ぶだけでなく、ボートで島々を巡り、それぞれの島の漁師さんとの会話を何よりも楽しんでおられるようでした。つまり、福武さんは、鳥の目だけでなく、魚の目も持っておられるといっていいのかも知れません。瀬戸内の島々の若い人の多くは、たいてい四国や本州の都市に働きに出ているので、過疎化が進み、島にはじいちゃんばあちゃんたちが多いのですが、皆さん表情も明るく極めてお元気で、そこから「幸せな地域とは、お年寄りの笑顔があふれているところ」「歳をとればとるほど幸せになる」という、福武さんの極めてシンプルな「幸せの定義」が生まれたのだと思います。これは経験的にも納得できる幸せの定義ではないでしょうか。ふつう人間は歳をとればとるほど不機嫌になり、幸福感からは遠のいていきます。
 都会の、とくに男性は、会社を定年でリタイアするとやることがなく、身体も若い頃のように動かず、顔全体がへの字になって怒りっぽくなり、話題も病気のことか年金の話になってきます。それに比べると、海を相手に生活する島の漁師さんは、歳をとっても近海での漁とか網の修理とか、それぞれの体力と経験に応じた仕事があります。都会の人間が思っている幸福の定義が、島々ではまったく逆転します。瀬戸内の島々に残された豊かな 固有の文化を生かしながら、新しい地域の再生と発展のために、現代アートによる芸術祭を3年おきに開催するという発想は、天才的なアートディレクターである北川フラムさんなどの献身的な協力もあると思いますが、それを瀬戸内という県を跨ぐ広い地域において実現する構想力と実行力については、世界を重層的に捉え、まさに「飛ぶ力」がなければ実現できるものではありません。福武さんの発想や考えは、事業にもあらわれています。
 空高く鳥の目で、海の中の魚の目で、普段とは違った位相で事業が見えるということです。例えばベネッセの介護事業も、ご自身のお祖母さんの介護体験から始まった事業です。お祖母さんさんが、当時の公的な介護士によるあてがいぶちの介護を受けて、あまり幸せそうではなかったのを見て、民間による介護サービス事業を開始し、今ではベネッセグループの事業の一つの柱となっています。当時は、福祉事業と思われていた介護事業を、 民間企業が行うということについて,社内でも疑問を持つ人も多かったのです。福武さんが思い描く市場とは、自分とは全く関係のないところに、ただ儲かりそうだということで存在するマーケットではなく、「自分や、自分の家族がして欲しいサービスをする」という基本的なポリシーがあります。
 言い換えれば、マーケットとは、企業と分離された場所にある対象物ではなく、企業と顧客とが不可分の関係にあるということです。ベネッセの教育事業も介護事業も、同じ考え方に立っていると思います。
 以上は、私が勝手にみた、福武さん像ですので、極めて一面的な、的外れな見方かもしれません。この度、幸いにも、5月25日 (水曜日)午後7時より、東京大学(本郷)構内にある福武ホールにて、未来へのメッセージ舎主催による、福武總一郎さんの「瀬戸内国際芸術祭2016に寄せて」と題する講演会を開催します。(詳しいご案内は当法人のホームページをご覧下さい)。めったに伺うことができない、福武さんの瀬戸内国際芸術祭にかける本当の思いを、お話しされると思います。



生き方、死に方(現代往生術 その18)(2016/04/15)

この3月29日、母の百か日法要で、また佐賀の実家に戻りました。話が逸れますが、成田空港から佐賀空港までの運賃5700円で運航している春秋航空という中国の航空会社があります。東京の八王子の我が家から成田までリムジンバスで3400円ですので、その他の経費を合わせて1万円以下で九州・佐賀まで行くことができます。新幹線で帰ると35,000円くらいかかるので、最近では多くの人がこの航空会社を利用していつも満席状態です。佐賀空港から福岡や長崎に行くことも可能なので、利用する人も多いのでしょう。また、この春、キャンペーンで佐賀から上海まで950円というのがあり驚きました。この航空会社は国のバックアップもあるのでこうしたことが可能なのか。まさに中国は国家資本主義国といってよいでしょう。
 さて、話をもどします。百か日法要は、佐賀の実家で、菩提寺である牛津町の観音寺の和尚さんをお迎えし、そこで今は一人で暮らしている妹と私の二人で仏壇に手を合わせました。妹が母の写真も飾っていたので、つい3ヶ月ほどまで生きていた母という存在が写真という画像情報だけになってしまったとボンヤリ考えたりしました。母は亡くなる数時間前まで、痰が肺に詰まり、苦悶の表情を浮かべていましたが、亡くなったときは安らかな綺麗な顔になりました。多くの人からも美しいお顔だと言われ、そのとき母は肉体の束縛から解放された涅槃の境地にいたのだと思いました。
 和尚さんの読経の中に「ナムカラタンノー トラヤーヤー」ので出しから始まる、子供の頃にお盆などで聞き覚えのあるお経がありました。独特の節回しと、トラヤーヤーのトラが「虎やーやー」に聞こえ面白がっていたと思います。それをまた当時、家の離れで結核で長く療養していた三郎おじさんが、和尚さんの声色を真似て笑わせくれたことなどクルクル思い出しながら読経に聞き惚れておりました。あとで和尚さんに聞くと「大悲呪」というサンスクリット語を漢字にしたようなお経で、仏様を讃えるまあ呪文のようなものですというお話しでした。
 その二日後、妹と佐賀市から西に位置する小城市牛津町の観音寺に墓参りにいきました。佐賀平野の田園の中にぽつんととあるこのお寺には、子供の頃、牛津町のバス停から父母に連れられ徒歩で墓参りに行ったものでした。墓の掃除をし、花を飾り、線香を焚きました。父やそのまた父といった代々のものが、順番にこうしてお墓まいりをしたことでしょう。墓標にはすでに母の戒名が刻まれていました。帰りがけクルマを運転しながら考えました。私でさえたまにしか墓参りをしないのに、私の子供や孫の代になると一体どうなるのだろう。
 佐賀を18歳のときに出て、東京に住みついてしまった今、祖先のルーツである佐賀とはいずれ親類縁者もいなくなり、西暦22世紀になった頃は、「われわれの先祖はどうも九州にいたらしい」という会話が交わされるかも知れません。そう考えると、お墓がふるさとにあるということは、先祖のまさに生きた道標として、かけがえのない意味を持つのではないかと思ったものです。


生き方、死に方 (往生術 その17)(2016/02/15)

母の葬儀の収支決算書

さて、母の死から四十九日までの収支決算をここであえてやりたいと思います。母親の死後、日も経たないうちに金勘定とは何事だといわれそうですが、死ぬにもやはりお金がかかるという現実を、将来自分自身の問題として、また今日の社会状況を考える上でご参考までにご報告します。
 90歳で亡くなった母の直接の病名は、細菌性の肺炎ということでしたが、簡単にいえば老衰ということだったと思います。死の約一ヶ月前にはすっかり食欲がなくなり、その後は流動食と点滴でした。最期の約2週間は延命のための個室での完全看護だったので、多額の請求は覚悟していましたが、総額6万円程度でした。現在の高齢者の保健医療は一割負担ということですので、そのおかげでこの額で済んだのだと思います。ということは実際には 60万円以上はかかっており、まさに現在の日本の保健制度の恩恵を受けていたと言ってよいでしょう(もっとも、我が国の保険制度の赤字問題で、こうした状況がいつまでも続くことはないと思われます)
 病院での死亡後は、すっかり葬儀社のシナリオに沿って葬儀をおこないました。通夜と葬儀代をふくめて、葬儀社には「標準タイプ」の葬儀の費用として総額約65万円支払っております(ちなみに東京のある葬儀社の「標準タイプ」の価格は100万円でした)。葬儀会場の規模も50人ほどが入れる小さめの部屋で、かつ特別な儀礼などは極力省いた結果のお値段です。(この中には火葬場の費用6800円がふくまれています)。お寺には通夜から四十九日までの法事費用35万円と戒名代20万円の合計で55万円をお布施として支払いました。
 これもすでに書きましたが、お寺への費用、すなわちお布施は、いわゆる相場というものがあるようでなく、宗派によっても異なるようです。この55万という額を額をリーズナブルとうひともいれば高いというひともいてまさにブラックボックスの世界です。この辺りは、お寺も仏教界全体も考えていかないと仏式の葬儀離れがますます進むのではないでしょうか。戒名代などは最近は,ネットによる「お坊さん便」サービスでは2万円というものもあり、そのうち価格破壊が起こるのではないでしょうか。もちろんお寺からすれば、お寺の維持管理のための収入は、様々な名目でのお布施に頼るしかなく、葬儀は確実な収入源ということになります、戒名代などで収入を得なければ、寺院全体の維持も難しいというのもよく分かります。(キリスト教の教会であれば、日曜日ごとの礼拝でその都度献金も集まるでしょうが、残念ながらそうした慣習はありません)。
 またこれまでは、地域を中心とする檀家の寄り合いなどで、自ずから葬儀の費用が決まって明文化しなくても理解されていたものが、今日、とくに私らのように都会に移り住んでいるものにとっては、フタを開けて見なければ分からない世界となっています。話を戻しますと、香典返しやお花代、会食費など、その他雑費をあわせて約10万円弱。四十九日の会食費用が12万円。総合計で1,537,505円でした。
 それでは収入はというと、お香典などを合計すると約77万円でした。お香典の話で恐縮ですが、高齢で亡くなるとまずは同年齢の方はまず葬儀には来ません。また、喪主も60歳以上のリタイアした人も多く、言い方はよくないですが香典で葬儀がまかなえるというわけではありません。友人の中には親の葬儀で黒字になったというものもいましたが、地域の有力者や貢献された人望のある方には、そのようなこともあるでしょう。しかし、一般に超高齢者の葬儀は、ごく身内だけのまさに家族葬になります。ついでにわかったことは、このお香典という慣習は、決して形式的あるいは因習的なものではなく、いわば互助的な制度であるということも実感できました。
 よって母が病院での死亡から四十九日までの収支決算は、支出総額が約154万円。香典などの収入が総額77万円でした。つまり約77万円の赤字ということになります。この葬儀代の中には母が積み立てていた22万円もありますので、もしそれがなかったならば約100万円ほどの赤字ということになります。結果的には、母の残した預貯金などでなんとかなりましたが、普段から自分自身のことも含め、葬儀のことや死後のことも考えておかないと、その時の状況に流されて大変なことになると思います


生き方、死に方 (往生術 その16)(2016/02/10)

すっかり話が広がってしまいました。さて、この2月6日に私の母の四十九日の法要があり、また佐賀の実家に帰省しました。島内家の菩提寺は、先にも述べましたが、佐賀県小城市芦刈町(あしかり)の観音寺にあります。そこは臨済宗南禅寺派のお寺ということで、この四十九日の日に納骨しました。ごく近い親戚が10名ほど集まり、法要後は佐賀市内の楊柳亭という明治初期からの古い料亭で会食しました。近い親戚といっても、葬儀でもない限り、なかなか集まることはありませんので、ほぼ半世紀ぶりに会う従兄弟もいました。
 四十九日というと母が亡くなってから2ヶ月もたっていないわけで、母がいた病院の脇を車で通ったりすると、まだそこにいるような錯覚になります。特にすぐ下の妹は、夫との離婚後、ずっと母と二人で暮らしで、最期までよく介護をしていましたので泣いていました。母は享年91歳でしたが、私と同年輩の友人たちの親も、もちろん早く亡くなられた方もいますが、母親は90歳を越してまだ元気という方も結構います。日本人のライフステージーには一つの典型があり、親の介護、それから葬儀(順番通りに行けばの話ですが)は、避けることのできない人生のイベントです。私の父の世代は、親の寿命も今よりおよそ20年は短かかったので、見送る方も現役世代が多く、昔の葬儀の写真などを見ますと、慰霊を持っている喪主の顔もまだ若い。ところが寿命が長くなりますと、喪主の顔もおじいさんで、まさに老老介護後の葬儀になってきています。さて、ここからは、ご参考といいますか、わたしの母の死亡から納骨まで、いくら費用がかかったのか、その収支をざっくりとご報告します。母の納棺の時に、葬儀屋の助言のもと、六文銭(と刷った紙)を母の懐に入れましたが、人は死んでからも永遠にお金がつきまとうものだということであり、地獄の沙汰も金次第とはよくぞ言ったものだと思います。


生き方、死に方 (往生術 その15)(2016/02/05)

多くの日本人のライフサイクルと、宗教との関連を見ると、誕生1ヶ月目の初宮詣、七五三の神社へのお参り。結婚式ではキリスト教会や神前での誓い、葬式は仏式での葬儀というのがもっともポピュラーな一生のパターンです。
 一年を考えてみても、正月元旦の約一週間前はクリスマスで「聖しこの夜」を歌い、大晦日にベートーベンの第九の歓喜の合唱を聞き、除夜の鐘を聞いてご来光を拝み、神社に初詣しておみくじを引く。そのうえ門松注連縄を飾ってお正月の神様をお迎えするのですから一神教の信者から見れば何だこれは、でしょう。イスラム国の過激派からすれば、とても人間の所業ではないということになります。けれど我々日本人からすれば、別に不自然でも不都合も感じません。不謹慎な言い方かもしれませんが、いろいろな宗教的文化の いいとこどりをして生活を楽しんでいるということにもなります。最近はコンビニが盛んに恵方巻を宣伝しています。なんでも今年は南南東に向かって恵方巻を食べれば福が来るとか。これなど元をたどれば中国の陰陽道のこじつけでしょうか。
 私自身もじつはこの多くの日本人と同じように宗教的というより慣習的な行動をとっています。学生の頃は聖書研究会のようなところにも顔をだしたり、仏教哲学の講義に出たりでイエスやブッダの教えに感動を覚え、また古事記などの神話の世界にロマンを感じたりしました。今も時折聖書を読んであらたな感動を覚えたりします。しかし、洗礼を受けたり、授戒を受けたりすることもないし、おそらくこれからもないでしょう。ある宗教や信者の人にはシンパシーや畏敬の念を感じても、自分自身はそうはならない、またなれないという自信(?)があります。
 では無神論者かといえばそうとはいえず、さりとて唯物論者でもない(この二分法も極めて西欧的ですが)。海外であなたの宗教はなんですかと聞かれたら、まあ仏教です、くらいに答えています。でも仏教徒ともいえない「曖昧な日本の曖昧な私」という感じです。このような存在は、世界的に見れば、どのようなポジションに位置づけられるのでしょうか。一般にある宗教の信者は、どうしても熱心になるほど自分の信じる神様が最高だと思うし、この信仰の喜びを他人にも分け与えたいと思うようになります。それだけでは済まなくなり、原理主義的になると邪教と思われる人や物を攻撃したり他宗教の教会を破壊したりします。
 私が大学生の1970年代のごろの世界は共産主義と資本主義、自由主義のイデオロギー対立の時代でした。ベルリンの壁崩壊後の現在の世界的な紛争の背景を見ると、そこには根深いほどの宗教的対立があることに驚かされます。当時、誰が今の状況を予測できたでしょうか。昨年末の、パリの同時多発的テロ以来、現代の重要な思想的な価値観としての「寛容」の重要性が盛んにいわれ始めています。これは人々の内面の問題に政治を持ち込まないという政教分離、思想信条の自由ということですが、イスラム、とくにその原理思想はこうした考えは欺瞞的に見えるでしょう。この近代思想としての「寛容」というのは、かつてヨーロッパにおいて、カトリックやプロテスタントなどの同じキリスト教徒どうしの血生臭い争いの末に生まれた思想概念です。これは今日、歴史的に形成された人間の基本的な権利として護るべき価値観だと思いますが、熱心な信者からすれば宗教と政治、あるいは生活を分けて考えるのはありえないと思えるでしょう。そうであるとすれば、日本的な、あらゆる宗教に対してのいい加減さ、いいかえれば世界の宗教のいいところはみんな受け入れて尊重し、敬意を持て接すれば、宗教的な争いはなくなるのではないでしょうか。恵方巻もいいが年に一回ラマダーンを体験してイスラムの教えに触れてみるのもいいかも知れません。このまさに「宗教的ないい加減さ」を「ニッポン的寛容主義」と呼んで世界に広めることはできないでしょうか。


生き方、死に方 (往生術 その14)(2016/01/27)

ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とはおもわざりしを
これは在原業平の辞世の歌としてよく知られていますが、私の母の死と葬儀についても似たような心境でした。おそらく私自身の場合もこんな感じではないかと思います。(それにしても昔のひとは、死に際になってよく歌などよめるものだと感心します。)こうした業平のような生死観(いわば突然死観)は、多くの日本人が共有するものではないでしょうか。葬儀の後、東京に戻り、友人と死や葬式について真剣に語ろうとしても、とくに酒が入っているような場合、酒がまずくなるということで、そのうちいつものいい加減なヨタ話になってしまいます。よく葬儀の弔辞などで「天国でまたお父さんと仲良く暮らしてください」とか、亡くなった親友に対する弔辞で「またあの世で酒をくみかわそう。それまで待っててくれ」などというような泣かせるスピーチがありますが、それではその人が天国や、あの世での再会を本当に信じているのか、あなた自身も死後生まれ変わって、その親友に会えると思っているのか、と聞きただすと(だれも聞きただすひとはいませんが)きっと首をかしげるか、または、「そうなればいいなあ、という願望です」くらいの返事でしょう。つまり多くの普通の日本人にとって、死というものは、いわば交通事故のようなもので、いつかはくるものであるとは知ってはいるが、昨日今日のことだとは知らなかったというものでしょう。少なくとも死ぬということは健康なときに思うものではなく、 病気や不治の病に見舞われたとき、また老い先短いと感じたとき、嫌々ながら考えざるを得ない、考えたくない、忌み嫌うべきものです。


生き方、死に方 (往生術 その13)(2016/01/23)

閑話休題 葬式と宗教、特に我が国の仏教のことをつらつら考えていましたら、本日(1月22日) NHKの「特報首都圏」でタイムリーな特集をやっていました。それはアマゾンがネット販売として「僧侶派遣サービス」の仲介を始めたということです。まさにお坊さんの宅配便(お坊さん便)です。番組では、お坊さん便に登録した新潟県の山間部にあるお寺の住職が、東京の派遣先を自家用車で廻っていました。このお寺は、20年前には檀家が約800戸ある由緒あるお寺ですが、今では20戸ほどになり、それも高齢者ばかりで、寺の経済基盤が崩れ「寺じまい」の準備を進めているという話でした。派遣登録しているお坊さんも結構歴史のあるお寺の住職も多いようです。
 こうした動きに対して「公益法人全日本仏教会」は断固反対の声明を表明しました。その理由は、法事などは「サービス」ではなく、仏道の修行」としての宗教行為であるということのようです。この報道番組を聞いていて、今回の母の葬儀で感じていたことが、まさにわが国の宗教的儀礼の市場構造の大変革として顕在化し始めたと感じました。
実際にネットで「お坊さん便」を検索すると、アマゾン関連の他にもたくさんのお坊さん派遣業者が出てきます。価格表もあり、葬儀での読経代は5万円、戒名代は2万円とか記載されています。私の母の戒名代が20万円、叔母が200万円でしたから格安ということになります。おまけにこれらはいわば事後的な請求でしたので、価格表が事前に示されるのは安心でもあります。今でも日本人の約9割が仏式の葬儀やお墓との関係で成り立っているわけですが、その仕組みを支えてきた、江戸時代からの檀家制度、およびその上でこれまでは安泰であった多くの、それも地方で過疎化が進むお寺が、今や存続の危機を迎えているということだと思います。
 特に私のような、佐賀から東京に出てきたようなものは、檀家としての意識は次第に薄れ、お寺から毎年請求される墓の維持費などは、布施というより墓の管理サービス代金という感覚になります。とはいえ、私自身はまだ「お坊さん便」を利用する気にはなれませんが、私自身の葬儀のとき、宅配されたお坊さんからありがたい読経を戴いている図を想像したりします。


生き方、死に方 (往生術 その12)(2016/01/20)

それから二日ほどたって、東京に戻る前に住職さんと3月6日に定めた四十九日の打ち合わせのついでに、お寺に支払う料金について電話で話をしました。普通の業界ではあり得ない話ですが、お寺に事前に見積もりを取るわけにもいかず、どうしても事後的な話になります。電話での会話はこういうものです。

私  「これまでの通夜やお葬式代や戒名を頂いた代金はどのように考えたらよろしいでしょうか」
住職 「そちら様としてはどのようにお考えでしょうか」
私  「それがよく分からないのでおうかがいしております。一般的なところを教えていただけませんか」
住職 「そうですね。戒名代が20万円、通夜、葬儀代が30万円ということでしょうか。」
私  「だいたい50万円というところでよろしいでしょうか」
住職 「そんなところでよろしいかと思います。」

まさに禅問答です。従兄弟の母親の戒名代が、200万円だと聞いていたこともあり、また一応想定内の金額でしたので、まあいいかという気になりました。母が葬儀のために積み立てていたお金やお香典などもあわせて、ほぼやりくりの見通しがつきました
(お香典というのは互助的な意味があることが身にしみて分かりました)。
葬儀の費用などについてはまたあらためてトータルにお話ししたいと思いますが、ふだんはだれも葬式のことなど考えないため、その段になって慌てふためくことが多いことを身をもって経験しました。また戒名代やお布施の料金などは宗派や寺の格式、伝統、住職の 考えかたなどの違いにより不明なものが多く、その上、私のようにふだんは東京に住んで寺との交渉が少ないものにとっては、まさに手探り状態でした。友人の中には永代供養にしたはずなのにしょっちゅうお寺から請求されるというので、それが主な原因とは思いませんが、キリスト教に宗旨替えした者もいます。ただし、キリスト教だから葬儀費用が安いというわけではないと思います。
 私の叔父の一人も、亡くなる前にカトリックの洗礼を受けて改宗しましたが、残された彼の妻が多額の寄付をしています。我々の世代さえこんな状態ですから子供や孫の世代になると一体どうなっているのか。少子高齢化の上に多死社会になり現在の私のように悠長に考えることはできなくなるでしょう。我々自身が我が身の処し方を真剣に考えておかないと大変な時代がやってくるでしょう。


生き方、死に方 (往生術 その11)(2016/01/20)

火葬場にて母の遺骨を骨壺に納め、そこから車で約一時間ほどのところにある菩提寺のK寺に三日供養ということですぐに向かうことになりました。東京からわざわざ来てくれた親戚たちは飛行機の関係もあり、そこで別れました。
 話は戻りますが、葬儀の時はK寺の住職さんが母に「慧室壽泉大姉」という戒名を授けて頂きました。母の名前の千壽子から一字取り、壽が泉の様に湧くというイメージのいい戒名を頂いたと思いました。ただ、同い年の従兄弟から、叔母の戒名代として
200万円請求されたということを聞いていたので、有難いと思う反面、果たしてこの戒名代の請求がいくらになるのかということが心のどこかに引っ掛かっていました。
 K寺は佐賀市の西側にある江戸時代からの臨済宗のお寺で、代々の住職がしっかりお寺を管理運営されており、佐賀の田園のなかにあるお寺としては京都の龍安寺の石の庭を模したような立派な庭もあります。運営管理がしっかりしているということは、財政基盤が安定していることでもあり、裏を返せば、檀家からお布施や墓の維持費をしっかり徴収しているということでもあります。本堂での三日供養のあと、お寺の客間に通され住職とお話しすることができました。住職は気さくな方で話が葬儀の時の祭具のことにおよびました。葬儀の時に「シカバナ」という木の小さな台にクリスマスの銀のモールのような小さな柱が4本立っていた祭具がありました。母の位牌と一緒に葬儀会社から渡され、ずっと持たされたので、あれは何かと女房が住職に尋ねました。住職からはあれは「四華花」 といってお釈迦様が涅槃に入った時、悲しみで沙羅双樹が真っ白に枯れたといことに由来する祭具であるというような解説をしていただき、一同納得顏でした。帰り際に「島内家中陰逮夜表」という法事のスケジュールがわたされました。いわゆる四十九日の納骨(2月6日)までに、7回の法事、つまり佐賀の自宅に和尚さんが来られて読経をあげるなどの法事があります。あとで妹たちはこんなにお坊さんがうちに来られては接待も大変だなどと陰でブツブツ言っていました。四十九日にはまた私が喪主を務めるということで、それ以外の法事は佐賀の実家にすむ妹に頼みました。この時もお布施にいくら包めば良いかということがよく分からず、まあ一回5000円ほど包めばいいだろうというような調子でした。


生き方、死に方 (往生術 その10)(2016/01/14)

さて、話は戻りますが、葬祭場のアナウンスで母の火葬が終わったことが告げられ、親族は指定された場所にいき、母の遺骨が出てくるのを待ちました。 ここからのことは経験された方も多いので、いちいちご報告することもありませんが、これも火葬技術の進歩でしょうか、特定な部位だけ残して、まさに母は真っ白な灰になっていました。さらに時間をかければ灰さえも無くなると思われました。私は、以前、先祖たちが眠っている墓石の下にある、小さな納骨堂の骨壷を覗いたことがあります。
 そこには私の曽祖父から父や 父の兄弟たちの骨が並んで納められていました。骨壺のなかを見ると、昔の人の遺骨ほど、まさに標本の人骨ようにリアルで大きく、おそらく焚き木で焼いたと思われる炭の跡さえ残っていて、まだ生前の肉体を想起させるものでした。 それに比べ父のそれは骨というより骨粉といったほうがいいでしょう。まさにわが国においては、火葬研究会が追求するように、遺骨も時代の要請にあわせてますます象徴的な意味だけになっていくように思いました。(最近はペンダントに入れるだけの納骨もあるようです) 仏教思想的に言えば、色即是空.空即是色で、肉体は蛇の抜け殻のようなものですから、その抜け殻は所詮抜け殻に過ぎず、どのように加工しようと構わないのかもしれません。そして、いよいよ母の肉体が、この世から完全に消滅し、今や思い出や遺品や写真といった「情報」だけになったのだと思いました。またいつの日かは、私自身もひとかけらの情報となり、それも秋の落ち葉のように、土に還って、完全にリセットされる日もくるでしょう。


生き方、死に方 (往生術 その9)(2016/01/14)

話がそれますが、私が参加したその「火葬研」(関心がある方は、一般社団法人 火葬研で検索してみてください)のシンポジウムの基調講演では会長の八木澤壮一氏が、わが国における火葬場の歴史概要を語っていました。わが国の火葬場では、「地域と調和し、環境に配慮した斎場空間を作る」ことが一貫して追求されているようです。火葬という祭祀儀礼は、その国や民族、社会及び個人の究極的かつ象徴的な行為のひとつです。
 現に火葬を禁じた宗教や社会も世界中には数多くあります。ただ世界の趨勢としては、土葬する土地の問題や衛生上の問題から、火葬が主流になりつつあります。そうした背景からか、火葬研究会の参加企業には斎場の設計施工業者から火葬残骨の処理工場まで多岐にわたっていました。また、シンポジウムには中国の方も多く参加していました。あとで理由を聞くと日本の優れた火葬技術と運営方法を学び中国で産業化したいということでした。日本が世界に誇るインフラ技術は、新幹線だけではないようです。現在東京において問題になっていることは、火葬場の絶対数が足りないことで、順番待ちのための遺体ホテルが都内で増えており、その建設をめぐって住民とトラブルに発展しています。都内でのこうした墓地の建設も含めて、反対の理由は要するに不快施設であることと、そのために土地の資産価値が下がるというものです。
 これから10年、20年後、超多死社会にわが国が突入した時、東京が どのような事態になっているのか、想像するだけでも暗澹たる気持ちになってきます。


生き方、死に方 (往生術 その8)(2016/01/10)

 金立の佐賀市営の火葬場は、佐賀市の中心部からクルマで30分くらいの背振山の麓にあり、吉野ヶ里の遺跡にも近く、いまでも考古学的な発見がちょくちょくあります。20年前の父の火葬場も同じ場所でした。到着するとすでに数家族の火葬が進行中でした。母の遺体も火葬釜の前で生前の形での最後のお別れをし、職員の方が恭しく口上を述べて、母は釜の中へ入りました。親族は待合室で90分ほど待つようにいわれました。
 待合室での時間は、いつも思うことですが、なんともいえない時が流れていきます。もっとも悲しいときには違いありませんが、火葬場まで来るのは親族のほか、故人と特に親しかったひとたちだけなので、喩えはよくないのですが、何かが焼きあがるのを待っているような妙な雰囲気もあります。その間、とりとめのない話をしました。同じ歳の従兄弟は、2ヶ月ほど前に母親を99歳で亡くしたばかりでしたが、火葬場の点火は自らがやったとのことです。(その斎場では、そうした選択肢があったようです)。米寿のまだ元気な叔父は、父親の遺体に積まれたマキに自分が直接火を点けたという思い出を話してくれました。
 そういえば、佐賀の母の実家の大財町(おおたからまち。佐賀市のいわば旧市街)の2階からは火葬場の煙突が見えていました。時折そこから黒い煙がたなびき、風向きによって髪の毛が焦げたような匂いが漂ってくるので、母が嫌がっていたことを思い出しました。 待合室の通路の壁には、いかにこの斎場が近代的な施設で、匂いも煙も出ないハイテクな施設であるかを大きなパネルに掲げありました。そういえば私は2年ほど前に友人に誘われて「火葬研究会(火葬研)」 に一回だけ参加したことを思い出しました。この研究会は、火葬場の設計やシステムから、その歴史や文化史まで研究し合ういわば学際的な会で、私はどちらかといえば好奇心から参加させてもらいました。


生き方、死に方 (往生術 その7)(2016/01/10)

翌日の葬儀は、同じ葬儀場で正午からはじまりました。その前に、妹たちによると、通夜での喪主である私の挨拶と母の紹介があまりにもそっけなかったというので、一番末の妹がA3判用紙2枚に母の紹介文をフェルトペンでまとめ、それを葬儀場にパネルで掲げることにしました。確かに私は、それぞれ個人の、とりわけ家族の「未来へのメッセージ」ということが大切だと日頃主張しながら、いざ身内の、それも母のことになると、うまく語れません。また、一般にいえることですが、亡くなった方が本当にどういった方だったのか、実際のところ分からないまま参列することもよくあります。妹のとっさのアイディアは、母の写真パネルとともに好評で、いまも実家の祭壇にかざっています。葬儀には、来れるはずがないと思っていた東京から従兄弟たちが4名も駆けつけてくれたことはやはり感激しました。
 佐賀は地方の小都市の例に漏れず、我が国の高度成長とともに多くの若者たちは、就職や大学への進学などで東京や関西に行き、かつその大半はふるさとに戻らず、都会に住み着いたものが多いのです。特に比較的高学歴を取得したものにっとっては、故郷にはやりたい職場もなく、多くはそのまま都会に住み着いてしまいます。私の従兄弟たちも、全て都会の大学を卒業し、その後もそこに住み着いたのですが、故郷に住んでいた彼らが少年の頃の思い出もあり、わざわざ来てくれたようでした、母の死に顔をみて、従兄弟たちは、それぞれの亡くなった母とそっくりだというような話しでもりあがったりしました。葬式は、親族が、互のルーツとそれぞれの家族の歴史を確認する機会でもあります。葬儀は1時間ほどで終わり、佐賀市の郊外の背振山の麓にある金立(きんりゅう)地区の火葬場に親族とともに移動しました。


生き方、死に方 (往生術 その6)(2016/01/05)

 翌日の通夜は午後の7時からで、佐賀の親戚や二人の妹の友人たちが参列してくれました。K寺からはご住職が一人で車でこられました。K寺は島内家の菩提寺で古くからの檀家ということですが、こちらも私がたまにしか佐賀に帰らないこともあって、どのような段取りで葬儀を進行すればよいかも葬儀会社任せでした。
 お寺との関係は、後でも詳しく述べたいと思いますが、よく法外な法事費用を請求されたとか、戒名代金が200万円もしたとか、あまりいい話は聞いたことがなく、友人の一人は日本の寺は葬式産業と揶揄していました。しかし、その一方で、お寺の維持経営が成り立たなくなり、廃寺の話もよく話題になっています。父の葬儀の頃は、お寺とも様々の法事や行き来があったため、いわば阿吽の呼吸で法事の費用なども決まったと思いますが、私はごくたまにしかお寺にはお参りにいっていませんでしたので、見積もりもとらないような、またそうした行為が憚れるようなお寺との付き合い方は、どのように展開するのか、まったく見当がつきませんでした。
 さて、通夜には予想に反して約50人程の参列者があり、真夜中にもわざわざお参りに来ていただく方がいらっしゃったりして、有難く思えた通夜でした。特に二人の妹たちの高校時代の友人たちや趣味の仲間が駆けつけてくれたようで、お経の後の精進料理を囲んだ集まりでは、わきに安置されている母のことも忘れたように楽しそうに語り合っていたことが印象的でした。その時、母が残してくれたものはこうした幸福な人間関係であったのだとふと思いました。


生き方、死に方 (往生術 その5)(2016/01/05)

 さて、母が亡くなると同時に、悲しむ余裕もなく、かねての段取り通りにまず葬儀会社に連絡を取りました。葬儀会社のクルマは一時間ほどで迎えに来ました。その間、病院の方で身体を清潔にし、簡単な化粧もしてくれました。母を自宅に連れて行く選択もありましたが、リユウマチの持病を持つ妹が大変なので、家に近い、同じ葬儀会社が運営する葬儀場に母を運びました。
 その施設は遺体の安置から通夜、葬儀まで一貫したサービスがありました。そのサービスの一つに、納棺前の遺体に死装束を着せる、仏式に則った儀式があります(宗派によっても微妙に違うようですが)。これも身体を洗い(湯灌して)きちんと死装束である経帷子などを着せるのか、あるいは上にかけるだけにするかというオプションがありました。もちろん料金も違います。私は事前の見積もり通り、上に経帷子をかけるだけにしました。 それから死出の旅路のための白い手甲脚絆、白足袋を親族で着け、三途の川を渡る時に鬼にわたす六文銭を持たせます。六文銭は印刷されたものでしたので、贋金とわかって鬼が怒って渡してくれないではないか、などと混ぜっ返す場面でもないので、いわれる通りにしました。さすがに額に着ける三角布は映画によく出てくる幽霊のようで枕元に置きました。
 日本全国の葬儀会社が全て同じようなサービスをしているのかどうかはわかりませんが、結婚式場がそうであるように、それぞれの地域と個人のニーズに応じた様々な儀式サービスを競いながら提供していると思われます。考えてみれば六文銭を鬼に渡すというのも、鬼へのサービスへの対価でしょう。この施設には親族が宿泊できる風呂付きの部屋も用意されていましたたので、私は葬儀の日までそこに寝泊まりすることにしました。
その夜も母と二人っきりになりました。妹たちが化粧を施したので、ドライフラワーのように、母がとても美しく思えました。感慨に浸る余裕もなく、これも葬儀社との打ち合わせ通りに、島内家の菩提寺であるK寺にケータイで連絡をいれました。母が亡くなったことを告げて、通夜を翌日の12月22日の午後7時より、葬儀を23日の午後0時より行うことにしました。
 それから私は親族に連絡をとりました。母は7人兄妹の末っ子ということもあり、親族は多い方で、その半数以上は、東京に住んでいます。おそらく連絡しても、通夜や葬儀に駆けつけることはほぼ不可能と思われ、佐賀と福岡に在住の親族だけが参列するだろうと予想しました。また、高齢者の葬儀に、まずは友人はほとんど参列しないので、必然的にごく内輪の家族葬になると思いました。
 葬儀会社の手配で地方紙の佐賀新聞社を始め、主な新聞の朝刊に死亡広告が掲載されることになりましたが、葬儀の当日の朝刊への掲載なのでこれを見て参列する人はまずいないでしょう。 20年前の父の葬儀の時は、自宅での通夜と葬式でしたが、葬儀会社によれば、ここ佐賀でも自宅での葬儀はほとんどやらなくなったとのことです。この葬儀場は駐車場スペースが80台ほどある佐賀市では中規模の葬儀施設です。その遺体の安置部屋のなかに1人宿泊することは感受性が鋭い人などは、多くの死者の霊魂に囲まれて耐えられないかもしれませんが、幸か不幸か鈍感な私はその夜はぐっすり眠りました。


生き方、死に方 (往生術 その4)(2016/01/05)

 母はその後も不安定な日々が2日ほど続き、医師からも肺炎の症状が改善されないので今日明日持てばよいといわれ、私の妻や子どもも東京から呼びよせました。そのころになると母は苦しそうな表情さえも見せなくなり、呼吸器で肺を膨らませているだけのような状態になりました。苦しむにもエネルギーが要るので、それも使い果たしたようです。血圧が80ほどになり脈拍も60前後を乱高下し、モニターのアラームは鳴りっぱなしです。体温も下がり、瞳孔も開き、もはや死亡した状態と思われました。妹達は耳元で涙を流しながら別れのことばを告げています。私も母の手をずっと握りしめたりマッサージしました。
 しかし死亡したかどうか判断するのはモニターが頼りなので、周囲は未だ心音や心電図の波形がかすかに残るモニターを横眼でみていました。かけつけた医師もモニター見ながら、われわれの同意を得るように「ご臨終ですね」と宣言しました。モニターなしでは死ぬこともできません。
 12月21日 午後7時23分、母は91歳で亡くなりました。最期は安らかでした。その時の私は、父が臨終の時のように滂沱の涙が流れ出るような悲しみはありませんでした。それよりも様々な苦しみからときはなたれたような安らぎが母にも、私たちにもありました。母の絆創膏で腫れ上がっていた顔も透明なきれいな顔に次第に戻っていきました。


生き方、死に方 (往生術 その3)(2015/12/31)

 その日の前日、私は佐賀に住む一歳下の妹と2人で母が会員になっているという佐賀の葬儀会社に葬儀の段取りや費用について相談に行きました。この会社は、もともと佐賀ではブライダル会社として知られていましたが、先見の明があるのか、互助会方式の葬儀事業も同時に行なっていました。
 20年前に亡くなった父もその数年前に会員になっていました。今から思うと私は一銭も父の葬儀費用を出してはいません。その時はてっきり母が何かしら蓄えた貯蓄で葬儀費用を賄ったなどとのんきに考えていたのですが、父は死の数年前から自分の葬儀の積み立てをしていたのです。
 父の死後も母は僅かに残った資金をもとに会費を積み立てていました。両親共に自分が死ぬ準備はしていたということです。私は大学入試で上京以来、そのまま東京に住み着いたので、たまに帰省する以外、ほとんど佐賀には帰っていないので、そうした両親のことは、全く知りませんでした。今回の母の危篤についても心のどこかでは、母の入院費や葬儀の費用がどのくらいの額になるのか、見当がつきませんでした。しかし母の積立金は35万円ほどあり、並みの葬儀をする資金としては十分でした。ホッとすると同時に自分が恥ずかしく思えました。
 さて、葬儀会社の担当のSさんとは細かく打ち合わせすることができました。葬儀にはいろいろとオプションがつきますが、湯灌(ゆかん)などあまり意味のなさそうな儀式的なことは極力省きとにかく簡素にしました。また高齢で亡くなる場合は、一般には弔問に訪れる人も多くありません。また、東京の場合と違い佐賀市の場合は火葬場も多いので、葬儀は亡くなった翌日でもできます。葬儀の段取り内容については、事前に決めておいた方がいいということは友人の経験談から聞いていました。
 見積もりと段取り表が作成され、これならバタバタする必要がないと思われました。 興味深かったのはそのなかで火葬場までのクルマの車種の件がありました。それらはクラウンとかエステマとか国産の高級車で、外見も全くの普通車です。なぜ霊柩車はないのかと聞くと、佐賀県ではあの金箔に飾られた典型的な霊柩車は禁止されているというのです。 理由を聞くと火葬場を建設する時に、地元住民との協定で、いわゆる霊柩車を用いないないことになったそうです。そういば東京でもあの屋根のついた金ぴかの霊柩車は最近見かけません。あとで経験したことですが、遺体を火葬場に運ぶクルマはリムジン風のクラウンでした。
 最近話題となる海や山での散骨や樹木葬などもできないか聞きました。S氏によると、対応はできるが、実際には荒波の玄界灘の限られた場所に船を出すなど費用がかかり過ぎ、九州ではほとんどやらないとのことでした。


生き方、死に方 (往生術 その2)(2015/12/31)

   死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞ゆる     斎藤茂吉

消灯になり母と二人でモニターのかすかな明かりだけの病室にいると、この闇の世界が、どんなに安息をもたらしてくれるのか。死の安息とは永遠の暗黒の中に抱かれることに違いないとふと思いました。そうした眠れない夜を過ごしていると、病院のなかではいろいろなことが起こります。この病院は、経営者が隣に介護ホームも併設しており、母はそこで食事を全く受けつけなくなったため、約三週間前にこの病院へ移ってきました。入院患者のほとんどが高齢者で終末期の人も少なくありません。真夜中に痰を吸引されるのが苦しいのか「苦しか?、痛か?」と幼児のように泣き叫ぶ老いた男性の声が病室じゅうに響いてきます。
 数分おきに「看護婦さあーん」と大声で叫ぶ隣の部屋の女性患者がいます。看護婦さんもこれにはうんざりして半ば無視しているようですが、物を倒したり実力行使に出るので最後は根負けしています。産婦人科医院のベッドでは赤ちゃんの鳴き声で溢れますが、ここでは老人たちのうめき声が絶えません。その中を走り回っている医師や看護師さんたちは大変な重労働で、ストレスも極限に近いでしょう。
 母には一晩中、約一時間置きに看護婦さんが見回りにきて、プラスチックの管で痰を吸い取ったり点滴液を替えたりします。痰を取るたびに母は苦悶の表情を見せるので、看護婦さんは絶えず「ごめんねごめんね」と言いながら喉の奥にチューブを差し込んでいます。実際、終末期の死因の直接原因に痰が詰まって窒息死することがあります。痰を取ったあとはやっと安らかな表情になります。
 そういえば約 20年前に、私は父のいる病室で似たような場面にいました。父はクモ膜下出血で倒れ意識が戻らないまま一週間も経たず亡くなりました。危篤状態の病室の闇のなかで、今と同じように心電図のグラフを見ていました。二人に共通するのは自分の死の時がわからなかったことだと思いました。
 その数年前、父が「俺も死ぬ準備ばせんといかん」とポツンといっていたことを覚えています。それが私に向かっていうのではなく、テレビを見ながら唐突にいうのでかえって印象に残っていました。そのうち半ば夢のなかで20年後のことを考えたりしました。20年後というのは2035年ごろ、我々団塊の世代という我が国で最も人口の多い世代が85歳を越えて、まさに全国の病院が末期の老人たちでいっぱいの時代になるでしょう。病室は今以上に老人たちの悲鳴や叫び、泣き声で溢れかえっているのかも知れません。少子化はますます進んでいるでしょうから、そのとき看護はいった誰がやるのでしょうか。長寿社会は、やっかいなユートピア出会ったことが具体的な現実として語られているでしょう。


生き方、死に方(往生術その1)(2015/12/22)

 年の暮れ、母危篤という連絡が郷里の妹から電話があり急遽実家のある佐賀に帰りました。母は91歳で認知症も進んでおり、ここ数週間は自ら食べることは出来ず、覚悟はしていましたが、やはり親の死に目には会いたいと思い、妹と相談して延命の措置を病院にお願いしました。あとで妹にその時の担当医師の対応を聞くと、ためらうような様子があったということです。
 成田から2時間余りの飛行機の旅で佐賀空港に行きそこからタクシーで病院に着くと、母は隔離病室の中で、すでに人工呼吸器が母の体に取り付けられており、ボコッボコッというゴムの人工肺の音は日常とは異なる世界にきたことを知らされました。口には空気を通す管と痰を取る管の2本が差し込まれ、それをテープでパラフィン紙のように薄くなった顔の皮膚に固定しているので、すっかり口の周りは赤く爛れていました。さらに痰を取る時の母の苦しそうな表情を見ると、もう十分です、管を外してくださいといいたい衝動がこみ上げてきました。その時、医師があまり乗り気でになかったという理由が分かりました。
 一昔前であれば、老衰で自然に逝けたとも思うのですが医学の進歩はそれをゆるさない。死に目に会いたいとはこちら側の勝手な言い分で、母はからすればとんでもない拷問でしょう。かといって献身的に延命治療を施してくださっている医師や看護師の方に、もういいですからチューブを抜いてくださいとはとても言えませんし、それは制度的にも難しい。 母の枕もとにはモニターが置かれ、血圧や心電図呼吸機能などが数値やグラフで示されます。脈拍を示すポッポッという音が絶えず流れ、ときおり異常値をしめアラームが鳴り、これを聞いた看護師が駆けつけてくるしくみです。私も妹も、母の顔を見ているより モニターの数値をジッと見ていることが多くなりました。
 母の体には生理的食塩水など3種類の点滴の管が刺さっており、あたかも水栽培の植物を連想します。モニターの数値も乱高下し、もうダメかと思ったら持ち直したりで母の生命力を感じます。そうこうするうちに、今度は東京に置いてきたしごとや家のことも心配になり、友人の父上が半年の間、延命治療が続いたということも思い出されて、この状態がいつまで続くのだろうとまた勝手なことを考えたりします。
それでも5日目に医師からもう危ないといわれ、その日の夜は母の隣のベッドで泊まることにしました。部屋を消灯して横になっていると、

    死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞ゆる

という斎藤茂吉の短歌を思い出しました。遠田のかわずの声は聞こえてきませんが、夢現つの中で心電図の音は絶えず聞こえてきます。
(つづく)


ルイちゃんと私(その3)(2015/12/20)

ルイちゃんと私(その2)を書いてから5ヶ月もたってしまいました。あれこれ忙しくしているうちに、私は唄を忘れたカナリヤのように
すっかり「朝にさえずる」ことをわすれてしまっていました。しかし奇特な読者のかたもいて、ルイちゃんはその後どうなったなどと
聞かれることがありました。そこでかなり間が開いてしまったことを深くお詫びして続きをご報告します。
ヨウムのルイちゃんは元気です。なにせ寿命は50?60年と言われるから当然です。相変わらず宅配便のお兄さんをこまらせています。
この間も女房の声で受け答えしていたので、そのお兄さんが「こ、この鳥しゃべるんですね」と文字通り目ん玉を丸くしていた。
ルイちゃんは、いわゆるおうむ返しではなく、ちゃんと応対をするのです。
話は急に変わりますが、当法人のホームページの「心のアーカイブ」のコーナーでは、この11月から映像アーカイブを配信しています。
80歳過ぎても元気に活躍されている各界のかたにインタビューを行い、「未来へのメッセージ」を語っていただこうというシリーズです。
11月はその第一回目として小林登先生(東京大学名誉教授。「子ども学」を創設されたことで有名。この11月に米寿のお祝いがあった)にお願いし、
快く応じてくださいました。先生は未来へのメッセージとして「優しさ」というこ言葉を下さった。フランスの有名な研究で、優しくされて育った子ども群と、
そうでない子ども群とでは明らかに成長の違いがあったといいます。「優しさ 」という「柔らかい情報」は、子どもの成長のプログラムという「硬い情報」
を活性化します。このような脳の働きはチンパンジーなど霊長類にも見られるが、やはりヒトがもっとも高度に発達しています。しかし、現代は「優しさ」が
欠如しつつあり、それが虐待やいじめを生んでいるのだと先生はいわれます。(詳しくはぜひご覧下さい)
私はこの話を聞きながら、優しさは霊長類だけでなく鳥類にもあると思いました。なぜならルイちゃんのことを考えたからです。ルイちゃんに限らず
鳥は程度の差があったとしても、「優しさ」のような柔らかい情報を持っているはずです。小鳥のさえずりがまさにそれでしょうから。


ルイちゃんと私(その2)(2015/6/02)

ふだんルイちゃんはどうしているかというと、家のなかにいるときは、片方の目でじっとわれわれ家族の様子を観察している。
映画「2001年宇宙の旅」で、宇宙船内のコンピュータのハルが、乗組員をじっと観察しているシーンがあったが。時々私はその
シーンを思い出す。そして家の中の状況に応じて一言コメントするのだ。たとえば我が家には猫が4匹もいるが、それがイタズラしたり
粗相をしたりすると、これもだいたい女房のこえで「マギー、だめよ」などと注意するのである。
我が家でルイちゃんに一番慣れているのは、長女のケイコである。ケイコはルイちゃんが今、どういう氣分でいるかが眼つきと
その雰囲気でわかるらしい。私は正直なところよくわからない。そのため。何度かひどい目にあっている。一度は籠のそばをすりぬけようとして
背中をあのフック船長の片腕のような嘴でひどく噛まれた。家のものは。お父さんが一番ルイちゃんをかわいがっているのに
何で噛むのだろうかという。「飼い犬に噛まれる」ではなく、「飼い鳥に背中を噛まれる」である。その点ケイコはまったく平気で
触りまくっている。ルイもルルルルなどといって、(ちょうどネコがゴロゴロ言う感じで)ケイコに甘える。
ケイコによれば、怖がるから、ルイちゃんも怖がるのだという。恐怖の連鎖というわけだ。餌をやっているからなつくというのでもない。
そのあたりの感情が犬や猫のように単純ではなくむしろ人間に近い。
ヨウムについての有名な本で(といっても、関心のある人にとってだが、)日本でも翻訳出版されている「アレックスと私」という本が
ある。著者の心理学者のペパーバーグ博士によると、ヨウムのアレックスは5歳児程度の知能と2歳児の感情ががあり、50の物体、7つの色、
5つのかたちが分別認識できたという。わたしにいわせれば、とくに感情は2歳児どころではない。また、遠距離にいても私が帰宅しているという
気配が分かるとは、おそらく、博士の研究には欠けている。
アレックスは31歳で死んだが、死ぬ前日にはかせに、「アイラブユー」といったそうだ、アレックスについては財団まで作って研究し、
ネットでも検索できるので、関心がある方は一度見てほしい。(つづく)


ルイちゃんのこと(その一)(2015/5/28)

ルイちゃんとは、うちで飼っているヨウムのことである。ヨウムとは、ウィキペディアで検索してみてもらえば分かるが
オウムの仲間である。現在、体長は25センチくらい。灰色のしま模様で尾がオレンジ色のどちらかというと地味な鳥である。
20年前にペットショップでほとんど衝動的に買った。ちょうど引越したばかりで、家に何かあたらしい趣向を凝らしてみよう
くらいのことであった。とにかく臆病な鳥で、買ったばかりのときはギャーギャー泣きわめいた。
買ってきた時は生後6か月だったので今は二十歳ということだ。ヨウムは、50年くらいは生きるという。確実に私よりも長く生きる。
ルイちゃんはまことに不思議な鳥である。そのごくサワリを話そう。
オウムは人真似するというが、ルイちゃんは、我が家の家族(6人)の声色を全て模写することが出来る。とくに私と女房の声は
まったくそのまま真似るので、これは大げさではなく私も間違えることがある。もっと不思議なことはその状況対応能力だ。
いわゆるオウム返しでは決して無い。たとえば、クリーニング屋さんが、「島内さん」というと、女房の声で、「はい」という。
クリーニング屋さんとルイちゃんのやりとりがしばらく続き、そのうち彼は鳥にからかわれたことに気づき歯ぎしりする。
夕食時に家族で食卓を囲んでだれかがオモシロイことをいったとする。すると女房の声で大笑いする(女房は笑上戸であるので、
ほぼ同時のタイミングで)。ルイちゃんが話しの内容が分かっているかどうかは不明である。おそらく家族の会話の雰囲気を察知して
笑いだすのではないかと推測している。場の空気が読めるのだ。
たとえば、私が爪切りを使おうとすると、私が爪を切る前にパチンと爪を切る音を出す。(ルイちゃんはあらゆる声帯模写ができる。
ウグイスの声、水道の水音、ドアを閉める音とか)。私がモノを抱えようと腰をかがめると、私がいうまえにヨイショという。
そして私が出かけようとすると必ず女房の声で「いってらっしゃい。気をつけてね。」という。それもやさしく。心を込めて。
女房は、私は要らないわねと笑う。
帰宅してドアを開けるとこれも女房の声で「お帰りなさい」という。女房によれば、私が帰宅する200メートルほど前、
つまり駅を降りた頃から「お帰りなさい」と言っているという。遠隔の予知能力があるのだろう。
こうした能力はますます高まっているように感じる。(つづく)


交通事故に遭った話(2015/05/24)

20日ほど前の朝の7時半ごろ、自宅の近くで交通事故に遭った。青信号で横断歩道を渡ろうとしたとき向こうから
左折してきた黒のフォルクスワーゲンに跳ね飛ばされたのである。クルマが左折するとき、直ぐ左手前の歩行者を
巻き込むケースはよくある。しかしまさか左正面から青信号で歩いてくる歩行者を相手が認識しないはずがないと
こちらも思いこんでいた。ところがそのクルマはスピードを緩めることなく私の左側からぶつかってきた。
私は約2mほど跳ね飛ばされた。あとで交通事故で死ぬとはこういうことかとつくづく思ったものである。
人生が突然、映画フィルム(いまどきフィルムなどないが)がプツンと切れてしまう。これほど残念な死に方もないだろう。
クルマは約10メートルほど過ぎて路肩に止まり、中から50歳がらみの女がでてきた。
(閑話休題。どうして事件性のある「女性」は急に「オンナ」と呼ばれるのだろうか。)
私の身体はしばらくの間固まって息もできなかった。が、何とか立ち上がることができた。幸いに、ちょうど大きなバッグを
左側に下げていたので、それがクッションになった。骨折はしていないようだが。左半身が大きなハンマーで殴られたように痛い。
普段は女性に対してポライトなこの私も、この時ばかりは思いっきり罵詈雑言を浴びせた。
「どこを見てんだ、あんた、、、あいたたた、注意して運転しろよ、あいたたた、、、、」
目撃者らしいものは周りにいなかった。こういう時すぐに警察を呼ぶべきなのだが、なんとか歩けそうだし、
何よりも約束していた時間におくれそうだったので、それはやめて、そのオンナの住所と電話番号を聞いてその場は別れた。
オンナはひたすら謝ったが謝まって痛みが和らぐわけではない。
その後、私に会うひとごとに、すぐに病院に行った方がよいとか、警察に行って事故証明をもらわないと保険も降りない
などさかんにいわれたので、行先の近くの病院に駆け込んだ。形成外科病院の受付で交通事故に遭ったので治療をしたい旨話すと、
驚いたことに、交通事故の治療や診断にはまず一万円払ってもらうのだという。私はたまたま健康保健カードを持っていたので、
保健で治療したいというとそれは出来ないという。誰も1万円用意して交通事故にあうわけでないだろう。納得がいかないので、
院長に話しをしたいとその受付看護婦にいった。彼女は不服そうな顔つきをしていたが院長に相談してみますと言った。
それから40分ほど待たされ、診察出来ることになった。その整形外科病院は高齢者の患者であふれかえっていた。
ほとんどが腰痛や膝痛などの治療で来る暢気な患者に思え、それでおおいに儲かっているのだろうと思うと無性に腹が立ってきた。
レントゲンや一通りの検査をうけて院長の診断を受けた。50歳くらいの医師で、ビジネスマンという感じだ。
1万円を請求されたことを話すと交通事故は自由診療であるし、保険会社から事故保険がおりるのであなたが負担することはないが、
あなたの場合保険医療でもいいということになった。どうしてそうなったか聞きたかったがここで議論をする気力も失せていたので
会計では3割負担の3800円を支払った。
それから110番に電話して事故の話しをした。やはりその事故現場で警察に連絡しないと現場検証もできないとさんざんいわれたが、
加害者と一緒に管轄の警察署にいけば、事故証明をだすという。その後私は加害者の女性と管轄の警察署に夜の8時ごろいったのである。
そこでもそれぞれ別々に調査を受けたが、係りの警察官から「相手の女性を訴えますか、つまり、罰を与えたいかどうかということですが」、
と問われたが、そのクルマも障害を持ったら子供の送り迎えなどで必要だと言われたこともあり(それが本当かどうかはわからないが)
その気はありませんと答えた。その後、その女性と保険関係の打ち合わせをした。会話の中でその女性はさかんに「クルマの左サイドミラーとの接触」
ということばを使い、軽い事故と思わせようという雰囲気を感じたので、私は足にかけての打撲の診断書を示し、単なる接触ではないという
ことを伝えた。交通事故ではなるだけ、自分にとって不利にならないように主張するようによくいわれる。こちらも変に妥協すると
どちらが加害者か分からなくなる。それから約20日あまり経ったが、その女性からはまだ何の音沙汰もない。電話にも出てこない。
病院からは警察の診断書を書いた料金はどうするのだという請求があった。現在また警察にそのことを届けているがどうもらちがあかない
状態が続いている。

長々と書いたが、事故後いろいろ考えた。
まず、だいいちに交通事故の恐ろしさを身を持って知ったということである。幸いにも診断書では全治1週間程度で済んのだが、
もしも私が幼児であったなら跳ね飛ばされて死亡事故につながったかも知れない。私も打ち所が悪ければ、もっと重症であったろう。
相手方も故意におこしたわけでもないので、相手にとってもまさしく事故なのだろう。当たり前の話だが、車のない時代交通事故など
なかったろう。もちろん馬が人にぶつかってということもあったろうが、そもそも「交通事故」という概念がなかっただろう。
現代は便利さと引換えに危険も、そして「保険」もセットで販売される。
ひどい交通事故にあった友人もいる。その友人は10年以上前になるが、タクシーの後部座席に座って事故に遭い、今も寝たきり
生活である。これも全くの災難ともいえる。
もうひとつは、交通法規があるからといって、安全ではないということだ。考えてみれば当たり前のことだが、なぜか安全のように
思い込む。われわれは普通赤信号で止まり、青信号で進む。しかし、今回のように青信号で渡っている歩行者にぶつかってくる
クルマもあるのだ。私自身も近所の交差点で考え事をしていて赤信号でクルマを走らせようとしたことがある。
幸いに助手席にいた娘があぶない!と叫んで急ブレーキをかけことなきを得た。交通事故に限らず、法律があるからといって
みんなが守っているわけでなく、必ず違反者はいるしその違反者が自分自身の場合もある。
極端なな事例でいえば、つい最近あったドイツの航空会社のジェット機パイロットの道連れ自爆的事故など遭遇した人間はたまった ものではない。
第三に日本の医療制度は、健康保険など充実している様な幻想をまだわれわれは持っているが、交通事故にあったときなどたしかに
健康保険が効かないのである。そうでなくても日本の保険制度は財政的な危機状態にある。2025年頃は破綻に瀕するという識者もいる。
はなしは、ますます飛躍するが、個人や社会レベルの話も、国家レベル、世界政治レベルでも同様の相似関係がある。
歴史をみても平和条約があったとしても守られるわけでもない。平和をわれわれが望んでいても、最近のイスラミックステートのように、
聖戦と称して戦争を望み、破壊行為を平然として行うのである。。北朝鮮のように、戦争になることをチラつかせながら世界政治をわたり
あるいている国もいまだにある。
話はますます逸れるが、事故や戦争は人間の原罪、宿命のようなものである。猿同士が事故にあった、戦争をするという話はきかない。
(チンパンジーは、縄張り争いで戦争のような殺し合いをするそうだ。これはチンパンジーが人間に近いという証明だろう。)
この文章の結論としては、自分の身は自分で守るしかない、道路を渡るときもたとえ信号が青でも細心の注意をして渡るしかない
という情けない纏めである。


設立一年が過ぎて(2015/05/18)

この「一般社団法人未来へのメッセージ舎」の設立が昨年4月1日でしたので、ちょうど1年以上が過ぎたところです。
もういちど原点に還るとともに、やはり設立の前と後ではまったく状況も変わっていますし、反省する事や、新しい発見、
そして新たな決意もありますので、そのことに触れたいと思います。
つまり、この法人の目的は一体なんなのか、それはなぜか、何をしようとしているのか、ということにもう一度戻ってみます。
詳しくは、当方人の定款に書かれていますし、6月13日に法人としての「総会」がありますので、「事業報告」としてはそこで
会員の皆様にご報告しますが、ここでは所感のようなことを書きます。
事業を成り立たせる自費出版を支援する事業そのものは、まだまだまだこれからというところですが、立ち上げて本当によかったと
思うところをいいます。
その第一は、なんといっても様々な新しい繋がりができたことです。繋がりとは生きることそのものだとつくずく思います。
それは楽しく心から遊ぶこと。生きててよかったと思うことでしょう。
この6月13日に予定する当法人主催の講演会の講師の医学博士・石川嘉樹さんの著書のタイトルは、「友だちの数で寿命がきまる」
というものです。つまり、社会関係のありかたがその人の人生を決めると読み替えてもいいと思います。そうした関係がこの法人を
媒体としてまさに多様なネットワークとして形成されつつあります。
石川さんの著書にありますが、日本人は国際比較すると、意外とにも繋がりのない社会といいます。たしかに会社とかまさに
仲間内では繋がりがあるかもしれませんが、あまりそれ以外に繋がろうとはしません。東北大震災では、盛んに繋がりの大切さが
いわれましたが、キャンペーンが終わると風化するのも早いようです。

はなしは飛びますが、球体、すなわちボールは、面白いカタチだと思いませんか。あれほどひとを喜ばせ、繋げ、夢中にするものは
ない。野球、サッカー、ゴルフ、エトセトラ。サッカーはその典型ですが主役はボールです、ボールには、蹴るとある方向にいく確実性と、
どこに飛ぶのか分からない不確実性があの形に同居しています。そのことに対して、人々は夢中でゲームをし、また観ても楽しんでいる。
MLB、メジャーリーグのボストンレッドソックスの本拠地の球場(フェンウェイパーク)にはレフトのフェンスにグリーンモンスター
という有名な壁があり、そこにボールが当ると何処にころがるか分からない。それを観客は喜んでいます。
このようにボールゲームにはボールを中心に、選手と観客が集まり場所が生まれます。 ゲームにはルールすなわち拘束条件があり
(サッカーであればキーパー以外は手を使わないとか)がありそのことが、ゲームを成り立たせ、面白くさせます。
ということでこの法人とはボールゲームだと最近よく思うのです。
では、そのゲームとはなにか、何をゴールにしているか、ということです。今の私の心境は、ゴールそのものを目指すというより、
ボールが転がる面白さ、何処にころがるか分からない面白さ、皆んなで蹴り合う面白さを徹底して追求しようと思っています。
しかし、観客がいなければ、これもゲームにはならない。面白くない。つまりは、事業にならないということです。
これが1年経ったいまの心境です。


男の掃除(2015/04/21)

今まで受けたこともない講演を聞くと新らしい発見がある。私が受けたレクチャーとは「ビルの清掃」というテーマであった。
清掃とは要するに「お掃除」のことである。それまでは。お掃除とは、きれいにすること、ゴミを取り除くことと軽く考えていたが、
ここでは「資産管理」という概念で語られたことが新鮮であった。
掃除を怠るとビルは錆びつきどんどん劣化する。つまり不動産としての資産が目減りする。確かに資産管理という目で掃除を考えると
概念が広がる。たとえば歯周病というのがある。これは歯の周りの歯周ポケットにゴミつまり歯石がこびり付き、ここに細菌が繁殖し、
歯が抜け落ちてしまう恐ろしい虫歯である。NHKの「ためしてガッテン」でやっていたが、これを改善するために歯ぐきを手術でめくって
歯石を徹底的に掃除し除去するという歯のオーバーホールを紹介していた。これも歯という個人のかけがえのない資産を、掃除によって
価値を維持し、さらに高めるかということである。
このように考えると、「お化粧」も顔やお肌を美しくする、まさに美しく化けるということであるが、顔や肌という自分の資産を、
できるだけ長く維持し管理するという見方もできるだろう。
この掃除に関する新らしい認識から、それまで大晦日でも掃除をしないチラカシ魔といわれていた私は、がぜん我家の掃除を
徹底的にやり始めたのである。まさに「男の料理」ならぬ「男の掃除」である。男の掃除には用具も重要なアイテムである。
最近は家庭の掃除にも新しいテクノロジーが開発されている。例えば化学雑巾のミクロファイバーは、洗剤なしでも窓ガラスを
ピカピカにするすぐれものだ。これはぜひ試して頂きたい。
私は私が歩くところはチリ一つない、歩く掃除機となることを家族に宣言した。
女房はいった。結構なおはなしですが、まずはあなたの書斎からお願いします。


廃屋ニッポン(2015/02/19)

都会でも地方でも「廃屋」が問題になっている。実は地方に実家がある私自身にとっても、廃屋問題は他人事ではなく、
そのうちニッチもサッチも行かない問題になることは明らかであるが解決を先送りしている。
私と同じ、地方から東京に出てきて、東京に居を構えた友人の例でいうと、自分が高校生まで住んだ約120平米ほどの家は
まだ地方にある。しかし、両親はすでに他界し、兄妹たちも東京に移り住んでいる。もはや無人化した家を売るためには更地に
する必要がある。更地にするためには費用が200万円ほどかかるという。土地は地域の相場の240万円で売れたとしても、
差引40万円しか残らない。本人はその家が、両親が苦労して建てた家であることをよく知っている。家の中には想い出の多い
愛着のある家具などもあり、現在はその物置のようになっているが、判断がつかず、そのままにしてある。
こうした家が都会も地方もゴマンとあるという。
かつて私は、瀬戸内海のある島に、セカンドハウスとして家を借りようと思ったが(それも、月1万程度で)、ところがその家の所有者が
分からないのである。外見的には全く問題のない家だが、所有者も管理者もわからなければ全くのお手上げである。瀬戸内海の島々には
こうした家や土地は数多くあり、さらに過疎化に拍車をかけている。これは近い将来の島国日本の状況になると予想したが、
全くその通りになってきた。
「未来へのメッセージ舎」では、次世代へ積極的、価値あるメッセージを期待しているのだが、実は、このような負のメッセージは
たくさんある。むしろ現代はそのほうが多いのかも知れない。それらに対し、次世代までに先送りするのではなく、責任ある決断をすることも、
我々世代の重要な役割である。


立花隆氏講演「自分史を書く意義」を聞いて(2015/01/12)

新年1月10日、東京・神田錦町「学士会館」において、学士会主催による評論家立花隆氏の「自分史を書く意義」
という講演を拝聴しましたので、今回はごく簡単に、その要旨をお伝えします。

<要旨>
「自分史を書く意義」とは、自分史を書くことで、これまで見えないもの、すなわち「時代が見えてくる」「未来が見えてくる」
のである。そのことは、政府の政策、マスコミなどに惑わされることなく、我が国の現在、そして未来の動向を、ひとりひとりが
考える上でも重要であり、これから生きていく選択の真の判断材料にもなるのだ。
自分史とは、「ナマの歴史そのもの」であり、「すべての歴史は自分史の集合体」である。その集合体こそが、その国の社会、
歴史そのものである。
今年は戦後70年にあたる。このことは、第二次世界大戦というナマの歴史を経験した世代が次第に消えていくことを意味している。
彼らが自分史を語ること、あるいはそれに耳を傾ける意義は極めて大きいものがある。
また、そうした「自分史」を書く手法としては、自分と日本の現代史との関連において考えることが重要であり、その例として
団塊世代のそれぞれの個人史と日本の高度成長、バブル崩壊などの歴史との関係がある。
そもそも、すべての文学は「自分史」である。例としてドイツ教養主義文学の例(たとえばゲーテの
『ウィルヘルムマイスターの遍歴時代』、カロッサの『幼年時代』等)などがある。
また、自分史などを書きたい時代、あるいは適齢期があり、それは60~70歳台である。その時期は、人生を今一度
振り返る時期であり、自分史を上記の視点で書くことによって、この長寿社会において、これからの人生をいかに
生きるかを再び定めるためにも意義がある。

<所感>
立花氏の「自分史を書く意義」とは、当法人が考える「自分史」「家族史」の考え方とほぼ重なるものであり、
今回のご講演はある意味で我々の事業を論理的に裏付けて頂いたような内容でした。
「歴史とは個人史の集合体である」「見えないものが見えてくる」ということは、当法人の設立趣旨にあるある
「ひとりひとりのメッセージの繋がりと、相互の学び合いが、私たちの心を進化させ、本当の豊かな社会づくりに
貢献する」という主張とほぼ同じ趣旨です。
また、当法人の「電子図書館」(アーカイブ)は、その最終的な目標として、「個人史の集合体としての日本の歴史
全体の構築」を目指しています(まだそこまではとても見えないかも知れませんが)。
ただし、このような、共感を呼ぶ「自分史」を書くには、ある程度の自分史を書く視点や技術や、形式、メソッドが
あるように思います。よく、「自分史」を書くことは自己満足である、「自分史」の本をもらっても困る、という意見があります。
しかし、その理由は、いってみれば、それが自己満足的に書かれていて、共感を持たれなかったからではないでしょうか。
おそらくそれは著者が自分の思いに任せて書いたものであったとしても、歴史的、社会的な視点、客観的な視点が欠けて
いるならば、共感が生まれにくいのではないかと(勝手にですが)思います。
ということで、当法人での出版する「自分史」「家族史」も、そうした視点を持った編集のあり方を考えながら依頼者(著者)との
会話の中で進めていきたいと思います。また、「自分史年表」(当法人のパートナーである出窓社のノウハウ)ももっと上手な
活用の仕方を考える必要があります。
立花氏の講演でもありましたが、日本というクニに住む我々には、共通の歴史的経験(戦争や災害、社会運動、経済のトレンド等)
があり、その中でそれぞれひとりひとりがどのように生きてきたかは、まさに見えなかったものが見えてくる歴史の発見そのもの
であると思います。開場は250名の会場が満席で関心の深さを示していました(ほとんどは60~70歳台と思われました)。
なお、氏には『自分史の書き方』講談社刊があります。

新年あけましておめでとうございます。(2015/01/04)

正月2日、NHK総合テレビで「戦後70年。ニッポンの肖像」という新春座談会を放映していました。
半藤一利、タモリ、堺雅人、中園ミホらが戦後70年の世相を、NHKの映像資料をもとに振り返るという
番組でした。
出演者の一致した意見では、私たちニッポン人は過去をスッポリと忘れてリセットし、立ち直ることに
たけている。
そして時代の潮流に合わせて全員、一生懸命努力することが得意である。その一方で一番の苦手は、
自分自身と向き合い、過去を見つめることである。タモリ氏は、がむしゃらに働いてさえいれば、
自分自身と対峙するしんどさからも解放されるという意見でした。
この放送で語られた、ニッポン人の自画像は、司馬遼太郎をはじめとして繰り返し言われてきたこと
でもあり、特に目新しいものではありませんでしたが、映像のリアリティもあってあらためて納得させられ、
私自身も多くのニッポン人の例に漏れず、そのようにして生きてきたように感じます。 そのなかで、
俳優の堺雅人氏の、自分や自分たちの親の世代の生き方をもう一度振り返ってみたいという発言がありました。
我田引水になりますが、これこそが当法人「未来へのメッセージ舎」が「自分史」や「家族史」の普及に
力を入れる理由そのものであります。 過去を振り返ることが重要であるということで、戦後のニッポンの
歴史を自分なりに調べ、学びなおすことも意味があるかも知れませんが、それよりも我々の身近な家族の
歴史、すなわち両親、あるいは祖父母の世代に遡って祖先の生きてきたことがらを調べ、学ぶことのほうが、
文字通り地に足の着いた自分自身の現在の立ち位置や、子や孫といった次世代に語り繋いでいく意味にお
いても、より重要な作業ではないかと思います。 よく「自分史」や「家族の歴史」を纏め本にすることは、
自己満足に過ぎないのではないか、そうした本を知人から贈られても有難迷惑であるという意見があります。
確かにその自分史や家族史が、自慢めいた話のオンパレードであれば、そういわれても仕方がない側面もあ
るでしょうが、この戦後70年、日本に住む人々には、どの家族にも戦後の廃墟から立ち直ってきた苦難の歴史
があり、その中で希望をもって乗り越えてきた生きざまがあります。そうした家族の物語には多くの人が共感し
共有できるシーンがあり、また新しい発見や教訓もあります。 戦後70年といわれる2015年の今年、
当法人も「自分史」「家族史」を書く意義をさらに普及していく一年にしたいと思います。


かつての花形産業、炭鉱の世界を活写した『立坑独立愚連隊』(2014/12/01)

 今回、当法人「電子図書館」に掲載する『立坑独立愚連隊』(たてこうどくりつぐれんたい)は、
自分史のジャンルの中では極めてユニークな作品です。
著者の野木英雄さんは昭和2年福島県生まれ。戦時中は陸軍航空士官学校、戦後は
官立秋田鉱山専門学校を卒業後、常磐炭鉱・常磐工業所に入社。その時の体験を自分史
としてまとめられました。野木さんは、退職後にカルチャーセンターに通い、物語の書き方を
一から学ばれたといいます。まさに一人の男が裸一貫で書いた迫力に満ちたいわば自分史文学
であり、炭鉱事業というかつての日本の花形産業の産業史にもなっています。
この作品のなかの、小さなゴンドラに10名ほどの小チームで乗り込み、地中深く800メートル
近く垂直に下り、シャベル一本で石炭を掘り進んでいく描写は、現在日本では全く失われた、
血と汗がほとばしる労働技術です。また作品のなかの、戦中、戦後を駆け抜けた世代のど根性と
純愛のエピソードも、まるで映画を観ているような面白さがあります。事実、映画にする企画もあったと
聞きます。
今回は、著者のご親族(娘でありシナリオライターの那須真知子さん)のご了解を得て、当法人の
「電子図書館」に掲載できることになりました。3回に分けて順次公表する予定です。
ぜひご一読いただき、感想をお寄せください。


「門間攝子 個展 「Listen to Silence 沈黙を聴く」をANAホテルで鑑賞する」(2014/11/30)

今年の11月8日から、来年(2015年)2月8日(日曜日)の3か月間にわたり、東京・溜池にあるANA
インターコンチネンタルホテル東京の1階から3階までのロビー全体を展示会場として門間攝子(もんま・せつこ)
さんの絵画の個展が開催されています。
門間さんの絵画は、ジャンルにとらわれない、かといって現代絵画によく見られる人々をわざと落ち着かせなくさせる
表現とは違い、ご本人が一部解説されているように、老荘思想的な恒久的な自然美を伝えることを目的とされています。
ANAホテル東京という都心の第1級の国際的ホテルのロビーに3階にわたり、数多く展示されても、「沈黙を聴く」という
テーマの通り、その環境にも自然と溶け込んでおり、あるいはホテルそのものが絵の風景としてあるような錯覚にも
とらわれます。この個展の企画者が米国系の画廊ということも大変興味深いです。
一般に絵画の個展は、画廊という閉じられた部屋の中で開催されますが、ホテルの回廊をゆっくり歩きながらの鑑賞も
新しいホテルの楽しみ方と思います。まさにふらりと立ち寄られたらいかがでしょうか。(東京・地下鉄 「溜池」下車1分)


「男の引きこもり 」(2014/11/18)

地域の百貨店のカルチャー教室の発表会が先日開催され、妻の友人がシャンソンの
発表をするというので妻といっしょにでかけた。発表会では手芸、絵画、陶芸、工芸などの
作品がズラリ展示されていたが、中には素人の水準をはるかに超えた力作もあった。プログラムを
見ると講座数はなんと141講座もある。
会場でもう一つ驚いたのは、参加者はほとんどが女性の高齢者であるということだ。
男性は数えるほどで、いわば女子大の文化祭がそのまま高齢化した、というとちょっと
言い過ぎだがそんな感じだ。
私も武蔵野市体育館で開催する健康教室(気功教室)に毎週かよっているが、健康教室の
参加者のほとんどが高齢の女性たちである。フォークダンスクラブの発表会では、本来なら
男女ペアで踊るダンスも全員女性で、民族衣装で着飾って踊る姿はさしづめ宝塚OB会といったところか。
これも言い過ぎか。
男たちはいったいどこにいるのだろう。妻に聞くと我が家の地域(20年前に開発された新興住宅地)では
定年退職した旦那族はだいたい家に引きこもっているという。自分の部屋に自分用のテレビを持込み一日
中ながめている者、なかにはパソコンでデイトレーダーのまね事をやっている者。家の台所を勝手に大改造して
奥さんをうんざりさせている者。奥さんの買い物にもしょっちゅうついてくるので煩わしく思われている者。
そんな我が家のダンナたちを品評しあって近所の女子会で盛り上がっているという。
私もどのようなお茶菓子の肴となっているのか不安になってくる。
自分のことを振り返ると、定年以降、たしかに男は家に引きこもる。理由としては、現役のときはさんざん
毎日遠距離通勤とか営業周りとか、まさに外回りで心身ともに疲れ切っているのだ。
もう一つは仕事以外での人間関係が妻たちのようにできていない。いまさら近所の同年輩と話し合うのは面倒だ。
いすれにしても40年間に社会のなかで形成された「カラ(殻)」が硬すぎて取れないのである。そのため退職後も
その殻を身につけたまま自分の巣に引きこもったほうが楽だ。まるでカフカの「変身」だ。おまけに稼ぎもないので、
女房からは次第に粗大ごみ扱いされる(気がする)。
地域デビューしても、特に大会社の役員などを最後にリタイアした男が、地域の自治会の役員などになろうものなら、
会社の役員会のように振る舞うので奥さんたちの総スカンを食うという。外にでるとすれば地域の図書館通い。
新聞の奪い合いが起こったり、座ったまま眠っている姿もよく見かける。(なぜ知っているかというと、私もよく
図書館に出かけるからであるが)これではあまりにも悲しい男たちの末路ではないか。
もちろん、もはや殻が出来上がったひとで、いまさら新しい人間関係を結んで面倒なことをするより、家にいるほうがよい
と確信するひとはこれ以上いうことはない。しかし、どうもマズイと感じた男はどうすべきか。
ひとつは、自分にこの40年間に形成された「殻」とは一体何なのか、徹底的に、見つめなおすということだろう。
一番手っ取り早いのは、奥さんや子どもたちの意見を聞くことだ。このとき、何を言われても言い返したり、
言い訳したりしてはいけない、私などは、自分では柔軟でひとの意見によく耳を傾ける方だと思っていたが、
子供たちに言わせると頑固で、自分の意見を押し付け、声も大き過ぎるという。こんなとき言い訳したくなるが
ひたすらじっと黙って聞くことである。
二番目には仕事上に身についた「殻」の中身はなにか一度棚卸し、仕分けをすべきだろう。たとえば長年銀行に
務めていたヒトは、その動作から、人間観まで、かなり銀行マンの「殻」が身についているものだ。これも本当は専門の
心理カウンセラーなど聞く相手がいれば完璧だが、自己分析で図や文章にして書きだしてみるのもいいだろう。
もちろん、仕事上身につけたものは全部が否定すべきものではないだろうが、一度リセット、解体してみる感覚だ。
三番目に、その仕分けしたものを元に、他人の、あるいは地域のために自分が活かせるものはなにかを考え、
自分の特技、あるいは利点をこれまでとは全く違う分野に活かせるか、活かせると思えばとにかく実行してみることだろう。
男が退職後引きこもりにならないために、当法人の理事の近藤大博氏(元・中央公論編集長。68歳)は次の
3つのことを私に教えてくれた。
1. ヒゲは必ず毎朝剃ること。
2. パジャマ、あるいはジャージ姿で1日過ごすことは絶対やめること。
3. かならず午後は出かけること(今日、行く。すなわち自己「教育」のために)。
実に簡単な目標だが、その簡単なことができなくなるほど男の引きこもりは頑迷であり、齢を取るほどに抜け出せなくなる。
引きこもりは日本の若者だけの専売特許ではない。


君は「G‐Rockets」を見たか(2014/11/12)

11月9日の日曜日、私は「ジー・ロケッツ」を見た。面白かった。こういったエンターテインメントがあることを初めて知った。
ジー・ロケッツとは、女性だけで構成される「アクロバットエンターテインメント・カンパニー」である。15年の歴史がある。
我が国は体操王国である。内村航平選手ほか、オリンピックのメダリストレベルの選手が数多く輩出されている。しかし、
その頂点の一握りのアスリートたちは、実は何千、何万人という選手層に支えられている。そのごく一握りにはなれなかったが、
技術もパフォーマンスも確かな一流選手たちは、競技生活を終えた後、どうなるのだろうか。
多くは企業などの社員として、それまでの選手生活とは全く関係のない世界で生きていくのだろう。だが、そういう生き方では満足
しないアスリートたちがいることも想像するに難くない。ジー・ロケッツとはそうした体操や新体操界の女性アスリートたちによって
構成されるプロのエンターテインメント集団である。
客席の目の前で繰り広げられるバク転やアクロバットダンスは実に迫力があり、肉体の可能性を出し切った演技は「エネルギー美」
そのものである。特に空中で表現されるアクロバットダンス(エアリアル)は文字通りスリルとサスペンスである。また、ミュージカル的
要素もあり、彼女たちの何人かはコーラスを歌った。
「挫折を知った日、それが私のスタートの日」という歌詞は彼女たちの生き方そのものであろう。今日、日本のテレビでいやというほど
見せられる「なんとか48」のような学芸会的雰囲気は全くない。一つ間違えれば大怪我に繋がるパフォーマンスの裏には厳しい
トレーニングがあるのだろう。彼女たちはまた、後進の指導や子供たちの体力づくりといった社会貢献も行っている。
私がなんでこれを見ることができたかという理由は、当法人の会員である「しいはら印刷工房」の椎原裕二さんの愛娘の夕加里さんが
メンバーとしてご出演されたというご縁からである。皆さんにもぜひ楽しんで頂きたい、これこそザッツ・エンターテインメント!



「お年寄りの笑顔」有料老人ホーム見聞記(その2)(2014/11/10)

介護付有料老人ホーム・ロイヤルハウス石岡のモットーであり、経営方針である「あなたの最高の笑顔を創りたい」についてひと
こと。この「お年寄りの笑顔」といういわばキャッチコピーは、「お年寄りの笑顔があふれる地域」など、最近いろんなところで
語られている。しかし、実際のところ難しいテーマである。経験的にも齢を取ると笑顔が少なくなる。第一に、加齢とともに顔の
筋肉全体が弛み、口元がへの字になり、不機嫌でなくとも不機嫌な顔になる。第二に、体のあちこちにガタがきて腰痛など慢性的な
痛みも出てくる。第三に、男でいえば会社をリタイアして稼ぎがなくなり、なんとなく家族の粗大ゴミになった気がする。それらの
複合作用のため苦虫顔に拍車がかかる。
私の父も晩年はそうで、孫たちは、おじいちゃんはいつも怒っているといってあまり寄り付かなかった。
つまり「お年寄りの笑顔を創りたい」というのは加齢という自然現象に逆らった、さらには現代のストレスが多い社会においては
実に困難なテーマへの挑戦である。
実際、このロイヤルハウス石岡では、職員の皆さんが厳しい研修と、また日々奮闘努力により、まさにお年寄りの笑顔が溢れている
場を創っている。食欲も入居前より増して、体重も平均2,3キロ増えるという。
笑顔になると体重が増えるということで思い出したが、「子ども学」の創始者で小児科の医師である小林登東京大学名誉教授の著書
『やさしさの科学』には、やさしい笑顔の絶えない保母さんのいる保育施設と、そうでない厳しいだけの保母さんのいる保育施設では、
児童の体重の増え方が明らかに違うというフランスでの研究が紹介されている。
つまりこういうことだろう。笑顔というのは人間の生きる喜びの表現であり、笑いと共にさまざまな意欲が湧き出るスイッチでもある。
当然食欲も増す。赤ちゃんの最初の笑顔と母親の笑顔の交換は、取り巻く世界の全面的な肯定である。お年寄りの笑顔も赤ちゃんの
笑顔も、本質的には全く同じ働きと意味を持つ。
ロビン・ウイリアムズが主役を演じた映画「パッチアダムス」では、実在の医師とされるである主人公パッチアダムスが、病院に
笑いをもたらすことによって、患者たちが生きる喜びと意味を見出す場面があった。しかし、この名優ロビン・ウイリアムズ自身が
最近自殺したことは、人間性の深い闇も同時に見せつけられた思いがする。


「有料老人ホーム見聞記」(2014/11/08)

介護付有料老人ホーム・ロイヤルハウス石岡を9月に見学。10月には施設の園長である大久保貞義さんの講演を聴く。ロイヤル
ハウスはいわゆる高級(高額)有料老人ホームで、個室タイプでは入居一時金は平均3,500万円、月額費用は25万円といったところ
である(共同タイプもある)。
「あなたの最高の笑顔を創りたい」をモットーに社員には徹底した教育を行い、至れり尽くせりのサービス、食事は高級旅館並、
かつお祭りへの参加など地域交流も盛んで入居者の満足度もとても高い。
どういう方が入居しているか気になるところだが、地元の方は少なく、ほとんど東京在住者である。都心の資産家ということに
なるが、中には普通のサラリーマンの方も多いという。つまり地方から上京し、東京郊外にローンで家を建て、退職金で全て払い
終わり、老後はそれを売却して入居一時金と資金に充てるのである。あとは介護保険と年金だ。最近は家を遺産として子供たちに
残すとかえって醜い相続争いの原因になることも多いという。それならば元気なうちに苦労して建てた家を売却し、高額でもこうした
介護付老人ホームに入れば子供たちの世話になることもないし、衣食住の不安もない。双方が満足するなら合理的な選択ともいえる。
アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』では、63歳の主人公は人生に絶望して自殺し、その保険金で家のローンを払い終える。
しかし、今日の日本人は退職後も20年、30年、あるいは40年もの人生が待っている。
大久保園長の講演のなかで、「学校では就職しどのように生きていくかは教えてくれるが、老後のことは教えてくれない」という
話があった。老後の生き方の教科書はなく、本人の選択と決断しかない。学校では学ばないだけに自由に生きることができるのだ、
と開き直るしかないだろう。


「マインドフルネスと瞑想」(2014/11/06)

「マインドフルネス(mindfulnes)」が流行っているらしい。ためしにネットで検索すると、既にマインドフルネス協会なるものができ、
指導員養成講座までもある。いまごろ「流行っているらしい」などというのはまさに流行遅れであろう。要は瞑想であり、座禅の
ようなものなのだが、「マインドフルネス」などといわれアメリカから逆上陸すると、さも新しいムーブメントになり注目される
から日本とは不思議な国である。また、集中力を高める、創造性が増す、社員の創造性開発にも役立つ、などの効用を説くのも
まさにアメリカ的である。
かくいう私自身、瞑想のよさを知ったのはごく最近のことである。サラリーマン時代は、知識としては知っていても何か時間の
無駄のような感覚があった。現在は、朝6時には起きて近くの公園で気功をやり、そのあと15分ほどベンチで瞑想をしている。
全くの自己流である。そよ風が吹くと自分もそよ風自身になり、これまで聞こえなかった微かな音も聞こえてくる、というより、
自分がその音そのものになったような感覚になってくる。目覚めると何か全てリセットされたような気分になる。それらのことが
集中力が高まる、創造性が高まるという気分にさせるのだろう。「温故知新」というが、マインドフルネスをたずねて東洋の叡智を
知る。まさにこれは「温新知故」であろう。


「団塊の世代と家族史」(2014/10/29)

「団塊の世代」とは、広く知られているように、堺屋太一氏が1946年から1949年に誕生した世代を小説の中でこう命名したことに始まり、
今では普通名詞のように使われています。この世代は、その1年間の出生数が約260万人以上、昨年が約106万人といいますから、
その約2.5倍以上の人口がこの世代にまさに塊のように犇めいているわけです。
この世代の一人としての私の実感をいいますと、さまざまな時間、空間的な意味での結節点、たとえて言えば蝶番(ちょうつがい )
のような感覚です。すなわち戦前と戦後、地方と都市。また大衆文化的には演歌からロック。
私は九州・佐賀から学生時代に上京し、そのまま東京に住み着いてしまいました。そして私の子どもは東京生まれの東京育ち。
子どもたちは先祖の墓のある佐賀には、ほとんど行ったことがありません。おそらく孫の世代になると、「どうも私の先祖は
九州だったらしいよ」くらいの感覚になることは想像するに難くありません。
べつにそれで生活に困るということはないでしょうが、唯一確かなことは親から子供への生命の連続性、それぞれの文化(ミーム)
の連続性ですので、「蝶番世代」としてはなんとか次世代に父母や先祖のことを伝えたいという思いが齢と共に募ってきます。
それが「家族史」、ファミリーヒストリーへの率直な思いです。そこまで大きく考えなくても、私たちの父や母のことを語り、
記すだけでも、我々の義務は大方果たせるのではないかと思います。
なんといっても、父母の世代の戦争体験は、次の世代へと語り継ぎ、教訓としても残すべき、それぞれの家族、そして日本人の
ドラマですから。当法人の電子図書館(アーカイブ)の使命のひとつとして『語り継ぐ戦争の記憶』をテーマにしているのは
そうした理由からです。


「ひとりひとりがアーキビスト」(2014/10/22)

昨日(10月21日)、NHK総合テレビの「クローズアップ現代」を観ていましたら、「アーキビスト」という言葉がでてきました。
これは、国や自治体などの公文書の保管を評価する専門官のことで、とくにフランスでは非常に高い地位の職業です。
つまり、後世に記憶すべき価値を彼らが、市民に成り代わって判断する働きをします。歴史や文化を重んじる国ならではの
専門職でしょう。わが国では、この制度と人材が極めて貧しいという番組での指摘でしたが、私はこのように感じました。
そうであれば、われわれ一人ひとりが「アーキビスト」になればいいと。
手前味噌ですが、「自分史」、「家族史」などは、まさに自分や家族の歴史的価値を自分で遺そうという試みです。また、当法人
で力を入れている、「電子図書館」のなかの「語り継ぐ戦争の記憶」では、ひとりひとりがアーキビストとして、その資料の価値を
判断して頂き、当法人がアーカイブスにする仕組みです。また、作者のご承諾がいただければ一般に公開していきます。
現在は、まだ数点ですが、10年もすると何百点、何千点になり、まさに歴史的、文化的価値の高い庶民史アーカイブスとなるでしょう。
つまり、みなさんひとりひとりが「アーキビスト」です。
今朝はちょっと長い囀りでした。